一
陰気な建物には小さな窓があった。大きな灰色をした怪物に、いくつかの眼があいているようだ。怪物は大分年を取っていた。
老耄していた。日が当ると
茫漠とした影が
平な
地面に落ちるけれど曇っているので鼠色の幕を垂れたような空に、濃く浮き出ていた。
室の中にはいくつかの室が仕切ってあった。いずれも長方形の室で壁が灰色に塗ってあった。この家は外形から見て陰気なばかりでなく中に入ると更に陰気であった。このまま動き出したら、疑いもなく魔物であった。
夜になると、このいくつかの眼に赤く燈火が
点る。中に人が住んでいるからだ。だから全く死んだ怪物の
骸が野中に捨てられてあるのでない。動かなくとも幾分かの生気があるのだ。
壊れたベンチと、傷が付いて塗った机がどの室にも置いてあった。机の上の傷は
小刀で白く
抉った傷である。X形のもあればS形のもある。ある傷は故意に付けたものだ。たとえば軍艦の
碇を彫ったのなどは、誰かが学校の
帽章を想像したかもしくは戦争の図などを見た時に退屈まぎれに故意に彫ったものだ。その他の傷は大抵自然に付いたものであろう。
Kはベンチに腰をかけたまま何か書いていた。彼は昨夜も食堂に出て来なかった。Bは床を出ると早速Kの室にやって来たが、
気兼をして障子の
孔から覗いて見た。まだ昨夜のランプが魂の抜けたように
茫然と弱く
点いていた。Kは一生懸命にペンを走らせていた。
Bは自分の室へ帰ってからも、Kのことが気になってならなかった。真白な厚い蒲団の上に肥えた身体を投げ出して
悶え始めた。何をKが書いているだろう。……
Bには、Kのすることが気にかかってならない。BにはKの言ったことには不思議に反抗が出来なかった。
BはまたKの室の前に来た。中の様子を気遣いながら、腰を
屈めて覗いた。やはりKはペンを動かしていた。折々金ペンの光りが鋭く
閃めいた。ペンに力が入って紙の目に
引懸った時だ。ペンの動く速力は非常に早かった。
殆んど息を
吐く間も、インキを浸す間もなかった。
Bは腫れた顔に不安の色を漂わして頭を傾げた。朝の湿った空気の底に灰色の建物は沈んでいて静かだ。Bの眼には蜂の針のように尖ったペンが紙の上を動いて行くのがありありと見えた。動いた
痕には青い
液で何やら不安なものを書き付けて……見る間に三行四行と走って行く。
Bは大きな頭を振って、歩いて見たが、もはやこの身体が自分のものでないように運ぶのが
大儀であった。
朝飯のベルが、冷たい空気に染み渡った。
Bは、こっちの隅に自分の体を隠すようにして、戸を押して入って来る人を眺めていた。いずれも生気のない顔をして、
顫えながら黙って席に着いた。やがて白い湯気の上る椀が各自の前に配られた。Bは
僅かに少しばかり食べたばかりで、やはり落着きのない眼を戸口の方に注いでいた。
後れて一人、また一人入って来たが、もうその後には誰も来なかった。来ないのはKばかりであった。
Bは気が気でなかった。
やはりKは自分のことを何か書いているのだろう。そうでなければ何を書いているだろう?……まだ後れて来るかも知れないとBは食物も
咽喉に通らないで、戸口の方を
見詰めていた。
その
中、一人席を立って出て行った。また一人出て行った。三人去り、四人去った。もう駄目だとBは
鬱ぎ込んでしまった。
いっそ、「何を書いていますか。」といって何気ない風で、Kの室に入って聞いて見ようか知らん。いや、それはいけない。却って私の顔を見ると、思わなかった悪感を抱いて余計なことを書くかも知れない。また万一、今書いていることが自分の身の上に関したことでなかったのが、自分の顔を見て、印象を強めたために、自分の身の上のことにしてしまうかも知れない。なるたけこの際自分の顔を見せない方がいいと考えた。
Bは一人、建物の外側に出て、石の上に腰を下ろした。空に汚い雲が往来していた。まだ冬が去るには間があった。
凍えた木立の梢が
裸姿で痛々しい。
青
腫れのした顔の中に、
怖気た小さな眼は
潜んでいた。頭の中は掻き廻されるように痛んで、眼がだんだん霞んで来た。遠くに森があった。森のかなたにも家があった。人が住んでいる。……
ずっと遠くへ行けば変った国がある。そしてこんな陰気な思いをせずに住むことが出来るような気がした。Bはそこへは自分の力で行くことが出来ぬと思った。
「やはり、この建物にいるのだ。」といって石から
起ち上った。
彼は
怨めしそうに建物を見上げた。泣かんばかりに口の中で神に祈った。……!
Bは、三たびKの室の前に来た。また、障子の孔から覗いた。Kの姿が見えなかった。Bは狂せんばかりに胸が騒いだ。ああ、この時だ。何を書いたか見なければならぬ。
後方から熱い息で、
囁いたものがある。
「早く、早く、すぐKが入って来るぞ。」
その囁いた者は、Bの眼にはっきりとその姿は見られなかった。ただ自分よりもずっと体が大きくて、背が高くて、その色が茫漠としていた。別に眼がない。口がない。けれどこの者が囁いたのを不思議と思わなかった。Bは障子を開けて入った。金ペンにはまだインキが乾いていない。書かれた紙の数は分らなかった。Bの眼にはただ虫が紙の上に
各自勝手な姿をして動いているように文字が見えた。この瞬間、全く文字というものを忘れてしまった。考えたが一字すら読めなかった。いずれもそれらの文字は
曾つて自分と親しんでいた文字であるのに……Bは自分を自分で解することが出来なかった。
文字よりも、金ペンの光るのに気を取られていた。……なにもせず
茫然としている自分が分らなくなった。……二分たった。……三分たった。……五分たったようだ。
足音がした! Bは始めて、気が付いてその室を逃れ出た。……振り向いて、病的にもう一度金ペンの光っているのを見た。