二
あれだけの時間があったのに、なぜ文字が読めなかったろう。ただ、青い屈折の多い線が見えたばかりだ。なぜこの脳が働かなかったろう。その瞬間に全く文字を忘れてしまったとは思われない。たしかに心には余裕があった。金ペンに青いインキが染まった具合から、窓から洩れる灰色の光線に輝く一種の調子すら、眼に印象となって残っている。……
Bは、白い床の上に
しばらく、Bは疲れて眠った。
眼の前にKが立っていた。赤いネクタイが見えた。黒い洋服が夜の色よりはっきりとした。痩せた、
「もう一度君に厄介をかけようと思ってやって来た。」と笑いもせず、Kは冷やかにいった。Bは黙っていた。
「もう一度君はかかってくれまいか?」
Bは、この言葉を聞いて身の毛が
外では風が出たと見えて、
「もう一度かかってくれまいか?」
この無口のKが、こう頼むことはないのだ。
Bは、白い床の上に坐ったまま身動きをしなかった。
「もう、お前の秘密はみんな知っているのだ。」とKはいった。
それでも、Bは黙っていた。
「お前が厭だといっても私は君をかけることが出来る。」と冷やかにKが笑った。
Bは、
「昨日私は
とBは堪えきれず言った。
Kは冷やかに穴のあくほどBの顔をじっと見て、笑っていた。
Bは、こうやっている間にかけられるのでないかと思ってわざとKの顔を見ずに下を向いていた。
「話したよ。」と、Kは冷やかに、薄気味悪く笑った。
「何だと言いましたか。」
「お前に分りそうなものだ。心に思っている秘密はみんな言ってしまった。」
と、Kは
「
「だが、君は僕にかかることを許してくれたのでないか。」
「かかることは許しても、秘密を聞けとは言わなかった。」とBが怒った。
痩せた、背の高いKは窪んだ眼を輝かしてハハハハハと、冷やかに笑った。
「かかってしまってからは私のものだ。私の自由になってしまう。」
「もう僕は貴君の自由にならない。」と、Bは
「駄目です。」とKは両手をズボンの隠しに入れて少し背を伸ばした。
「なにが駄目なことがあるものか、もう僕は君の自由にならぬ。」
「いや、君にはもはや僕に対して反抗力が
「なに?」……
「君は僕の勝手になるのです。一生君は僕の自由にならなければならぬ。」
「なに? 君の言う意味が分らぬ。」
「分らぬ筈がない。
Kは調子を
「厭だ。飽くまで反抗して見せる。」
Bは勇気を出して、起ち上るとベンチに腰をかけた。
「じゃ仕方がない。僕は僕の力を信ずる。君の許しがなくとも自由に君をかけて見せる。」と、KはBの前に立った。
「待ちたまえ。」といってBはベンチから
Kは逃がさないように慌てて出口の扉を
「僕は決して逃げやしない。ただ君に聞くことがある。」
とBはいった。Kは大股に歩いてBの前に
「もう逃がしやしない。」
「昨日はどんなことを話しましたか。」……
「それを聞いて君は何とするのだ。」
と、Kは笑っていた顔を
「ただ聞いて見たい。」
「君は秘密をみんな語った。」
「君はその秘密を聞いて何をするんです。」
「それは君に言われない。」
「どんなことを話しましたか。」
「君は生れた故郷を言った。次に親の名前から、自分が学んだ学校を語った……。」
「それから……。」
「学校にあった頃の話をした。」
「それから……。」
「初恋の女とその関係まで語った。」
「え、そんなことまで私は言ったろうか?」
「それは言ったとも。なにも驚くことはない。お前は
「それは話したかも知れない。」
「それを人に聞かれたからって、恥じることはない。」
「それは事実だから決して恥じない。」
「お前はまだ多くの事実を語った。」
「どんなことを話したか。」
「お前は胸に抱いている計画から、人に聞かれては困るような秘密をみんな話してしまった。」
「え、そんなことを私は言ったろうか?」
「言ったとも、お前はこんな陰気な建物に長くいるのは厭だ。遠くの国へ行きたい、けれど自分の力では行くことが出来ぬといった。」
「そう言ったでしょうか。」
「お前もよほどの空想家と見えるな。」