たとえ
鎖で
縛れていないにせよ、三人の悪者が此方に注意していないにせよ――何うしても逃げ出されないのだ。四面とも切り落したような
峻嶺である。とてもこれを
攀って逃ることは
六ヶ敷い。今他から突如として
援けに来る人がなくては、とても
援からぬ命である。この男が
何処かで捕われて、
此処まで連て来られた間には、いろんな
嶮しい処を通って来たであろう――普通の人の
歩めぬ処へ来た時に――何うしても足の踏み出せない処へ来た時に三人の悪者が無理にこの男を
引摺って後方から
追立て、それでも歩めない時には
小言をいいながら、荷物か何か運ぶように
担いで持って来たことであろう。――また男はこの場合にこういうことを思い出したであろう。――家の者は今頃自分が
斯様山奥で悪者に命を取られるということなどは知るまい。――この山奥に悪者が住んでいるという噂は聞いたことがあるが誰でも
真実にしたものがなかった。またこういう噂は聞いたことがある。悪者等が人の生血を絞って、染物をやり、その染物を海の上で売買するということも聞いた。また人間の脳味噌と骨を砕いて丸めた薬を造ると聞いた。また生胆を売りに出るということも聞いた。――
其等の薬は何でも遠くへ行って、旅へ出て売るということだ。けれど人の噂に聞いていたことで、実際にあることだとは思われなかった。
猟に出かけて、
途を違えて、この山奥に迷い込んで二日も木の根を枕にして
宿って、今朝の
暁、この悪者
等に捕えられたまでは、全く夢のような話だと思っていた。
捕われ人の頭には、いろいろと捕われた当時の有様などが
彷彿として浮き出た……。
ゴシリゴシリと鉞を磨ぐ音が耳に入る。若者は空想から
破た。この時悲哀な声で
研手の悪者が歌い出した――その声は
寂然とした
山谷に響く。
海が光るぞよ 血染の帆風 黄色い筈だ 月が出る
その歌は、浮世で聞ける歌でない。けれどその歌の調子は懐しい耳に聞き覚えのある調子である。よく里に聞き、海に聞き、また山に聞くことの出来る調子である。捕われた男はこの警察権も行届かない、人の知らない、山奥に独り坐って
僅かにこの歌の調子を聞いて、そぞろに人の住む村里を恋いしく思った。ただ思うより他、再び帰ることが出来ぬ身である。
若しこの歌が止んだなら全く浮世と繋がる一筋の糸も断ち切られてしまうので、
悪むべき敵ながら、その歌う歌の調子に涙ぐまれた。かくて物憂い
眸を地上から上げて見ると、小男は鉞を磨ぎながら歌いつづけている。
岩に腰を下した羅紗帽は、谷の彼岸を茫然と見詰ていた。石が転がって、木々が紅葉している。鉞を研ぐ前に立った鼻筋の太いのは熱心に鉞の物凄く光るのを見守っていた――
晩方の冷気が膚に浸みて、鼻から出る息が白く
凝った。この際は三人とも等しく歌に心を取られていたらしい。小男はつづけて歌った。
冬の霜よりしんしん浸みる 利刃に凝った月の影 触れや手頸が落ちそうに 色もなけれや味もなく……
と細く、物哀れに引いて消えたかと思うと力なげに
情の籠った節でつづける。
刃金の上に身を委す
と歌った。刃金の上に身を委す。それは独り月ばかりでない。やがて我身の
果であるのだ。三人の悪者は、この歌をうたって、暗然として何等か涙を催すようなことがあろうか。たとえ涙を催すようなことがあっても、決して
折角捕えて来たこの男を許すようなことはなかろう。捕われた男はしみじみと悲しくなって、束の間の我が命を考えた。
病葉が
彼方にも此方にもはらはらと
散ている。青い煙は一面に渓の隅々を
鎖した。黒く頭の見えた小屋も
黄昏となって分らなくなった。日はいつしか落ちて、大空は青々と澄み渡った。禿山に照り映えていた夕日もいつしか消えて、星の光りが
閃めいた。切り落されたような谷間から仰いでも空は広い。
而して限りなく深い深い奥に運命の通る穴がある。それが星とも天の花とも見えるのだろう。……それとも天魔が青い底から
蝋燭を
点して下界を
窺っているのかも知れない。
いよいよ殺されるべき時刻が来た。紺碧の空に星が輝いている。破た羅紗帽を被った悪者は、岩から腰を放した。磨ぎ澄された鉞には星の光りが映じた。鼻筋の太いのが死骸を入れる箱の蓋を開けて、血を汲む桶を二つ捕われ人の前に並べた。彼方の山の隅では大きな
土竈の下にとろとろと赤い火が燃えている。三人は訳の分らぬ符号で何事か示し合った。小男から羅紗帽の隊長が、鉞を受取るとぐるりと捕われ人の後方に廻った。……
空が暗くなるにつれて、深山の奥で
熾に火の手が燃え上って、その焔の
周囲に三つの黒い影が動くのが
瞭然と分ったが、いつしか
火手が
漸次に衰えて、赤かった焔の力が弱って黄色くなって見えた。いつしか黄色いのが白くなって見えた。
「ハハハハハ。」と厭らしい笑い声がすると、天上の星は微かに身震いした。
再び沈黙に返って、さらさらと谷川の音が淋しそうに聞える。冷たい渓風が吹き渡って全く焔が消えかかった。
折々ぴしりぴしりと生木の
刎返る音がして、その
毎に赤い火花が散った。
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