おじいさんは、そこに
居合わせた、
仲間に
別れを
告げました。すると、その
人たちは、
「おじいさん、あんまり
急じゃないか。
名残惜しいな。しかし、めでたいことで、なによりけっこうだ。
無事に
暮らさっしゃい。」といいました。
「さよなら。」
「
達者で
暮らさっしゃい。」
仲間は、
口々にいって、おじいさんの
出てゆく
姿を
名残惜しそうに
見送っていました。それから、みんなは、また、
自分たちの
仕事にとりかかって
忙しそうに
働いていました。
このとき、一
台の
貨物自動車が、
会社の
門から
出て、
町を
過ぎ、ある
田舎道にさしかかったのであります。
車の
上には、
世帯道具がうずたかく
積まれていました。
もう、やがて
春になろうとしていたが、まだ
寒い
風が、
野や、
林を
吹いていました。
雲切れのした、でこぼこのある
田舎道を
貨物自動車は、ちょうど
酔っぱらいの
人の
足どりのように、
躍りながら、ガタビシといわせて
走っていたのでした。たぶん、ある
家の
引っ
越しででもあるとみえます。
車台の
上では、
机が、いまにも
道端へ
飛び
出しそうになるかと
思うと、
箱が、いまにも
転げて
落ちはしないかと
見られましたが、それでも、それらは、
車にしがみついて
乗せられたまま
走っていました。ちょうど、そのとき、なにかしらない
別のものが、
道の
上に
落ちたのです。
自動車は、そんなことには
気づかず、そのまま
走り
過ぎてしまいました。そして、さびしい
道には、だれも
見ているものはありませんでした。
車の
上から、
落ちたものは、
勘太じいさんの
会社を
出るときまで
身につけていた、
半纒と
股引きと
帽子でありました。おじいさんが、ひとまとめにして、
荷の
上に
乗せておいたのが、そのまま
走り
出して、ついに
振り
落とされたのであります。
日暮れ
方を
告げるからすが、あちらの
林の
方で
鳴いていました。
町の
会社では、その
後、みんなが
思い
出しては、
勘太じいさんは、どうしたであろうとうわさしましたけれど、おじいさんからは、そののち、なんのたよりもなかったのです。そして、みんなからも、だんだん
忘れられていこうとしました。
かれこれ一
年ばかりもたってからのことです。
会社で
働いている
一人の
若者が、ある
日、
町から五
里ばかり、
東の
方へ
離れている
街道を
貨物自動車で
通ってくると、
勘太じいさんが、ここに
働いていた
時分のようすそっくりで、とぼとぼと
街道を
歩いているのを
見たといいました。
おじいさんを
知っている
人々は、この
話をきくと
目をみはりました。
「それは、
人違いだろう……。おじいさんは、
息子が
迎えにきて、
新しい
着物にきかえて
帰ったのだから、また
昔のようすにかえるというはずがない。」と、あるものはいいました。
「いいや、
勘太じいさんに
相違ない。
俺は、よほど、
自動車を
停めて、
声をかけようと
思ったが、
急いでいたものだから、つい
残念なことをしてしまった。」
「おじいさんを
見て、
自動車を
停めないということがあるものか?」
「しかし、おじいさんなら、
困れば、またここへやってくるにちがいない。」
「いや、ああしていったん
帰ったのだから、きまりわるがっているのかもしれない。
人間の
運命というものは、いつまたどんな
境遇にならないともかぎらないからな。」
「
俺、こんど
見つけたら、
無理にも
自動車に
乗せてつれてこよう……。」と、
若者はいったのでありました。
ある
日のこと、おじいさんを
見たという
若者は、また
自動車に
乗って、その
街道を
走っていたのであります。
「いつか、この
街道で、おじいさんを
見たのだが、
見つかってくれればいいがな。
今日ばかりは、おじいさんをつかまえてやろう。そこで、
場合によったら、
自動車に
乗せてつれてゆこう……。」と、
前方をながめながら
思っていました。
あちらに、
森があって、その
下に
人家の
見えるところへ
近づいたときに、
若者は、
行く
手に
勘太じいさんが、あの
破れた
帽子をかぶり、
見覚えのある
半纒を
着て、
股引きをはいて、その
時分よりはずっと
元気がなく、とぼとぼと
歩いている
後ろ
姿を
見たのであります。
「おお、おじいさんがゆく……。」といって、
若者は、それに
追いつくと
自動車を
止めました。
「
勘太おじいさんじゃないか?」と、
若者は、わめきました。
おじいさんはたちどまりました。そして、うしろを
振り
向きました。
「
勘太おじいさんじゃないか……。」
「ああそうだ。」と
答えました。
「おじいさんか……。」といって、
若者は、
顔をのぞくと、いつのまにかひどくおいぼれて、
両方の
目が
腐っていました。
「おまえは、どうして、そんなにおちぶれたい……。」といって、
若者はため
息をついたのです。
「いろいろ
不幸がつづいてな。」
「
息子さんは、どうしたい。」
「
死んでしまった。」
「それは! おまえも
不運なことだのう……。なぜ、また
早く、
町へ
出てこなかったのだ。」
「
町へ……。」
「これからゆくか? もう、おまえに、そんな
元気がないか?」
「ああ、ゆく。」――
若者は、あまりに
変わりかたがひどいので、どうしようかと
思いましたが、みんなにつれていって、おじいさんを
見せてやりたいような
気もしました。
このとき、あちらから、
若い
女と、
子供らがこちらへ
駈けてきました。
「おらのおじいさんを、どこへつれていかっしゃるつもりだ。」と、
女は
大きな
声でいいました。
若者は、びっくりしました。
「
町へ……。」
「
町へ、なにしにさ。だれがたのんだい。」
「
俺は、
勘太じいさんと、
町でいっしょに
働いたものだ。」
女は、あきれたような
顔つきをして、
「
勘太じいさんなんて
知らない。うちのおじいさんは、もうろくしているで、
働けやしない。」
「じゃ、
人違いか……。この
着物はどうしたのだ。」と、
若者はききました。
この
貧乏な、もうろくをしたおじいさんは、どこからか、
捨ててあったのを
拾ってきて、それを
着ていたということがわかったのです。
若者は、このおいぼれたじいさんが、
勘太じいさんでなかったのをしあわせと
思いましたが、またべつな
痛ましい
感じがして、そこを
立ち
去りました。なにも
知らぬ
子供らはめずらしそうに、あちらを
向いて、
自動車の
遠ざかりゆく
影を
無心にながめていたのであります。
――一九二六・一――
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