何を作品に求むべきか
小川未明
作品が、その人の経験を物語り、それ等の事実から人生というものを知らしめるにとゞまって、これに対する作家の批評というようなものがなかったら、何うであろう。最も、ある人々は却って、芸術に、その批評を必要としないという者がある。
それ等の人々は、たゞ、経験をありのまゝに語ればいゝというのだ。その経験は裏付けられた、作家の主観が、即ち、その作品の厚みであり、深さであるから、批評めいたものを、必要としないというにある。
主観の必要なことは、いまさら言うを要しない。たゞ、批評ということに、全部の問題がかゝっているのだ。
然らば事件という事はそんなに重要なことか。重要なら、何のために重きをなすのか。それが、畢竟作品に変化を与え、面白く読ませるというに過ぎないなら、そこに疑いがあるであろう。
作品は、面白く読ませるということを、一条件としなければならぬのは、言うまでもない。しかし、何が面白く、何が面白くないということも、読者の態度と要求によって検議を要する。ただ、作品は、筋の面白味を言うのでないということだけは、少し思想のある人々は、既に、知っている筈なのだ。
どんな、複雑した、また、波瀾に富んだ事件であろうと、それについて真に深刻なる人生味を感ずる者は、実に、この経験者自身を措いて、他には決してないであろう。
芸術が、経験を通じて、何ものかを語らんとしていることは、事実である。
こゝに、享楽派の芸術家があるとする。彼等は、幾多の女と関係したことを書く。淫蕩な事実を描く、肉欲を書き、人間の醜い部分と、そして、自分達、即ちブルジョア階級がいかにして快楽を求めつゝあるかを告白する。しかし、余程の低劣な作家にあらざる限り、これ等の事実を提供して、読者に媚びようとする者は恐らくあるまい。社会の一般は、常に、享楽を要求しつゝあるからという理由で、それと妥協せんとする者はあるまい。そして、ブルジョア作家は、なおこれ等の事実から、いかに、人生というものの物憂いか、また、はかないものであるかを、また人間の醜いものであるかを語ろうと欲するのである。言い換えれば、やはりこれ等の華かな事実を通じて、人生の暗黒な真相を考えようとしているのである。それでなければ、やはり、芸術家としての天職に対して、何となくすまなく思うのだ。また、良心に対しても恥かしいような気がするのだ。
このことは、無産派の作家についても言い得る。彼等は、無産階級だ、いかに、搾取されつゝあるかを事実について物語る。また、一方に、享楽階級が、華かな生活を送る時分に、一方は、いかに暗黒な、そして、苦痛多き生活を送るかを事件について描写する。
けれど、目的は、その事実、もしくは事件の筋を語るのでは決してないだろう。
要するに是等の実例を挙げて、そのいかにして、よってかくの如き結果を生ずるか、批評の鋭いものがなかったから、芸術家としての良心は、必ず満足するものではない。
ブルジョア作家は、その憂愁と倦怠とが、何によって来るかをもっと深く考えなければならない。無産派作家は、どうして、こうした数奇な生活が、特種の人達にのみ送られるかを更に深く考えなければならない。そして、筋に捕われてはならない。妥協してはならない。