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波荒くとも(3)
日期:2022-11-29 02:18  点击:264


みつは、あるきながら、自分じぶんおとうとのことをおもしていました。ちょうどとしごろもあの小僧こぞうさんとおなじくらいです。ゆきまじりの北風きたかぜきつけるまどしたで、おとうと父親ちちおやのそばでわらじをつくったり、なわをなったりしているであろう。したいて、だまっている父親ちちおやは、
「すこしやすめや。」と、ときどきかおげていうであろう。そして、えだや、まつなどをれるであろう。しばらく、あおい、かおりのするけむりが、もくもくとしているが、そのうちにぱっとえついて、へやのすみまであかくなる。とおくで、からすのごえがする。おとうとは、自分じぶんからおくった少年雑誌しょうねんざっしして、さも、大事だいじにしてたのしそうにしてひらいてる。おとうとは、めずらしい写真しゃしん見入みいったり、またいてあるおもしろそうな記事きじに、こころうばわれて、いろいろの空想くうそうにふけるであろうとおもったのでした。
「あの小僧こぞうさんは、あれからどうなったろう。」と、彼女かのじょは、一にち仕事しごとをしながらもおもっていました。
そのうちにれて、その用事ようじわると、彼女かのじょは、自分じぶんのへやへはいって、このあいだ、おとうと清二せいじからきた手紙てがみしてなつかしそうに、またかえしていたのです。
ねえさん、ぼくゆきえるのをっているんだよ。そうしたら今年ことしはおとうさんとうらのかややま開墾かいこんして、はたけつくるのだ。くさをつけてたいたり、こしたりするのが、いまからたのしみなんだ。そして、にいさんが、凱旋がいせんしていらっしゃるまでにまめをまいたり、いもつくったりしておいて、にいさんをびっくりさせるんだ。なぜなら、にいさんだって、あのかややまには、ちょっとがつけられなかったのだからな。ねえさん、ぼくは、満洲まんしゅうへでも、どこへでもいけるよ。ぼくがいくときは、となりとくちゃんも、いっしょにいくというんだ。二人ふたりでなら、うちのおとおさんもゆるしてくださるとおもっている。ねえさん、なにか満洲まんしゅうのことをいたほんがあったら、どうかおくってください。ぼく、とてもたいのだから……。」と、いてありました。
みつは、いつもおとうと元気げんきでいるのをうれしくおもいました。そして、たえず希望きぼうにもえているのをなんとなくいじらしくおもいました。しかし、これからのなかて、ひとりちしていくには、どこにいても、今朝けさ小僧こぞうさんのようにつらいめにもあうことがあるだろう……。そして、それにっていかなければならぬのだとおもうと、また、こころなかくらくなるのでした。
「どうぞ、かみさま、ちいさなおとうとや、おとうとのような少年しょうねんをばたすけてやってください。」と、みつは、へやのなかでしばらく瞑目めいもくして合掌がっしょうしていたのであります。
翌日よくじつ、みつは、用達ようたしかえりに、わざわざ交番こうばんりました。小僧こぞうさんのようすをきたかったからです。やはり病気びょうきをがまんして、おもってたためにたおれたのだということでした。そして、小僧こぞうさんは、主人しゅじんしてきわたされたというのであります。
ちいさくて、いえのため、おやのためにはたらくような子供こどもは、みんな感心かんしん子供こどもだから、よくめんどうをみて、しんせつにしてやらなければならぬと、主人しゅじんにいいわたした。」と、巡査おまわりさんは、いわれました。
「ほんとうに、そうです。」と、みつは、ふかかんじたので、丁寧ていねいあたまげて、交番こうばんましたが、みちあるきながら、もし、その主人しゅじんというのが、薄情はくじょうで、もののわからぬ人物じんぶつであったらどうであろう。自分じぶんのしかられたことをうらみにもって、かえってあわれな小僧こぞうさんをいじめはしないかしらとかんがえると、やさしいみつこころにはまたあたらしい心配しんぱいが、しょうじたのでした。
「そんなことはないわ。そんなことがあれば、またしかられるでしょう。きっと、主人しゅじんは、ああ自分じぶんわるかった、不注意ふちゅういだったとさとって、これから、あの小僧こぞうさんや、ほかの小僧こぞうさんたちをかわいがるにちがいない。みんな日本人にっぽんじんですもの……。」
彼女かのじょは、自分じぶん心配しんぱいが、つまらない心配しんぱいであることをったのであります。

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