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二番めの娘(2)
日期:2022-12-03 23:59  点击:270
 
いつしか、ほうせんかはすっかりってしまいました。そして、そのには、とうがらしがあかいろづきました。やまには、くりが紫色むらさきいろじゅくすときがきました。あきになったのであります。
あきになると、母親ははおやはいっそう、とおくへやったむすめのことをおもしました。それでなくてさえ、むしこえが、そとくさむらのうちにすだくのでした。
あるのこと、母親ははおやは、二ばんめのむすめかえってきたゆめました。
「おまえは、どうしてかえってきたか?」と、母親ははおやよろこびと、おどろきとで戸口とぐちしました。
「おかあさんは、いったら、我慢がまんをしてうちかえりたいなどとおもってはいけないと、おっしゃったけれど、わたし、どうしてもかえりたくて、かえりたくてならないので、かえってきました……。」と、むすめきながらうったえたのです。
「あ、よくかえってきてくれた! わたしは、おまえがいったから、一にちでもむねやすまったとてなかった。いくら貧乏びんぼうしても、親子おやこはいっしょにらします。もう、けっして、おまえをどこにもやりはしない。」と、母親ははおやはいいました。
ふと、がさめると、むすめはそこにいませんでした。そして、いってから、いまだに便たよりとてなかったのです。
ゆめであったか……。それにしても、むすめは、いまごろどうしたであろう。」と、母親ははおやは、おもっていました。
すると、このとき、かすかに、すすりきするようなおとが、そとできこえたのであります。母親ははおやは、おどろいてとこなかからがりました。ほんとうにむすめかえってきて、もしやうちにはいれないで、にわさきにでもっていているのでなかろうかとおもったのでした。彼女かのじょ雨戸あまどけて、わざわざそとてあたりをながめてみました。
そとは、いい月夜つきよでありました。昼間ひるまのようにあかるく、木立こだち姿すがたはうすあおつきひかりらしされていました。しかし、どこにもむすめ姿すがたえませんでした。そして、はるかかなたから、なみおとがすすりくようにきこえてきました。
さすがに、あきになると、宵々よいよいに、荒海あらうみせるなみおとが、いくつかの村々むらむらぎ、えて、とおくまできこえてくるのであります。
むすめごえおもったのは、そのなみおとであったのでした。
あねや、おとうとも、二ばんめのむすめのことをいいくらしていました。
ふゆがきました。こがらしは、そらさけび、ゆきはひらひらとってび、やまも、はやしも、やがてしろとなって、ゆきしたにうずもれてしまいました。この時分じぶんになると、もはや、汽船きせんふえもきくことができませんでした。荒浪あらなみは、ますますれて、くらそらしたに、うみは、しろくあわだっていたからであります。
やまにすんでいるけだものや、とりは、さがすのにこまったのであります。あるのこと、あねおとうとが、まどからそとていますと、四、五のからすが、きながら、野原のはらほうからんできて、たんぼなか木立こだちまり、かなしそうにいていました。それは、親子おやこのからすのようにえました。やはりゆきのために、さがしにさとほうへやってきたのだとおもわれます。
子供こどもたちは、これをると、なんとなくかわいそうにおもいました。それで、あわもちがあったからそれをちいさくして、たんぼほうへ、まどからげてやりました。すると、からすは、ざとくそれをつけて、一のからすがりて、ゆきなかから、もちぎれをひろいあげると、またがってえだまりました。子供こどもらはどうするだろうかとていますと、そのからすは、自分じぶんで、それをべずに、したえだまっていた、からすのくちばしにそれをいれてやったのです。ひろったからすは、母親ははおやであって、それをべさしてもらったのはその子供こどもであるとおもわれました。
「まあ、なんとやさしいもんでないか?」と、子供こどもたちといっしょにそれをていた、母親ははおやがいって感心かんしんしました。これをるにつけて母親ははおやは、二ばんめのむすめうえあんじました。
「あのしんせつな、ひとのよさそうな小父おじさんのことだから、むすめは、しあわせにらしているにちがいなかろうが、どんなにか、あの遠方えんぽうはなれているのでさびしかろう……。」
おもい、なみだぐまずにはいられませんでした。
「おねえちゃんは、どうしたろうね?」と、おとうとは、おもしてくと、一うちは、きゅうにしんみりとするのでした。
そのあくるとしはるのことでした。むすめのところから、はじめてのたよりがありました。それには、たいへんいいところで、気候きこうあたたかであれば、まちうつくしく、にぎやかで、自分じぶんは、しあわせにらしているから安心あんしんしてもらいたいといてありました。
このとき、母親ははおやをはじめ、姉弟きょうだいたちは、どんなによろこんだでありましょう。そして、あねや、おとうとは、自分じぶんたちも二ばんめのむすめのいっているくにへいってみたいとあこがれました。
けれど、この時分じぶんには、まだこの地方ちほうには汽車きしゃというものがありませんでした。どこへゆくにも、荒海あらうみ汽船きせんでゆかなければならなかったのです。
西にしくにへ、もらわれていった、二ばんめのむすめは、大事だいじにされていたので幸福こうふくでした。小父おじさんのうちは、まちでの薬屋くすりやでありました。小父おじさんは、くすりって諸国しょこくあるいていましたが、留守るすには、おばあさんが薬屋くすりやみせにすわっていたのであります。
ばんめのむすめは、こうして幸福こうふくであるにつけて、故郷ふるさとあねおとうとや、またこいしい母親ははおやおもさずにはいられませんでした。
「いまごろは、おかあさんはどうしておいでなさるだろう……。」とおもいました。
種子たねってきてまいたほうせんかがいたが、ふるさとのまえたんぼにもたくさんくことであろう……。そして、いまごろになると、うすあかいろどられたおきほうそらのぞんで、なんとなく、とおいところにあこがれたものだが、やはりあちらのそらは、今宵こよいうつくしくいろづくことであろう……。」などとおもいました。
ふゆになっても、むすめのきた地方ちほうは、ゆきりませんでした。いつもあたたかないい天気てんきがつづいて、北国ほっこくはる時節じせつのような景色けしきでした。彼女かのじょは、吹雪ふぶきのうちにうずもれている、故郷こきょうのさびしいむらえがいて、そこにあわれなははや、姉弟きょうだいおもったのであります。
このせつないこころをするおもいにくらべて、故郷ふるさとで、みんなといっしょにらすことができたらば、どんなに幸福こうふくなことであろうとおもわれました。
どうかして、彼女かのじょは、もう一ふるさとにかえっておかあさんや、あねや、おとうとに、あってきたいとおもいました。けれど、このころから、小父おじさんは、からだがだんだんよわってきて、彼女かのじょは、年寄としよりたちをひとのこして、とおたびにもることはできなかったのです。
小父おじさんが、ああして、くすりはこおぶって、諸国しょこくあるいていた時分じぶんに、もっとみなみ船着ふなつで、外国がいこくからわたってきた、くさ種子たねにいれました。それは、黄色きいろおおきなりんはなひらき、太陽たいよううつほういて、あたまうごかす、不思議ふしぎはなでありました。
当時とうじ、ひまわりのはなは、この地方ちほうにすらめずらしいものにおもわれました。また、このはな種子たねから、くすりつくられるというので、小父おじさんは、それをってかえって、自分じぶんうちのまわりにまいたのであります。
このひまわりのはなが、そのときちょうどあかぼうあたまほどもありそうなおおきなりんひらいていました。むすめは、この黄金色こがねいろをしたはなをじっとていますうちに、いつしか、そのはな自分じぶんおなじようなおもいできていることをかんじました。はなは、自分じぶんが、母親ははおやしたうように、つねに太陽たいようのありかをしたっていたからです。
彼女かのじょは、いつからともなく、ひまわりのはなきになりました。
にち彼女かのじょは、みせさきにすわって、まちうえんでいるつばめのかげをぼんやりと見守みまもっていました。そのとき、四十前後ぜんごおとこ巡礼じゅんれいがはいってきて、すこしやすませてくださいといいました。巡礼じゅんれいは、からだのぐあいがわるく、それに、つかれていました。彼女かのじょは、さっそく、くすりあたえました。しばらくすると、巡礼じゅんれいは、元気げんき恢復かいふくしました。そして、あつくおれいべて、これから諸国しょこく神社仏閣じんじゃぶっかく参拝さんぱいするとき、あなたのうえをもおいのりしますといいました。
むすめは、この巡礼じゅんれいが、とお諸国しょこくをもまわるのだとききましたから、もしや自分じぶん故郷ふるさとへもゆくことはないかといました。
来年らいねんはるのころには、あなたの故郷ふるさとほうへもまいります。」とこたえました。
彼女かのじょは、かんがえていましたが、ひまわりの種子たねかみつつんで、すこしばかりってきました。
「もし、わたしうちまえをおとおりなさることもありましたら、この種子たねわたしだとおもってくださいといって、ははわたし、あねや、おとうとに、よろしくいってください。」といってたのみました。
巡礼じゅんれいおとこは、それをって、
「たしかにおわたしいたします。ありがとうございました。」と、れいをいってりました。
「お達者たっしゃに。」といって、むすめは、巡礼じゅんれい見送みおくりました。
巡礼じゅんれいは、とおざかってゆきました。彼女かのじょは、あのあおい、あおうみを、汽船きせん幾日いくにちられてきた時分じぶんのことをおもしました。いまの巡礼じゅんれいは、やまえ、かわわたり、野原のはらぎ、村々むらむらをいって、自分じぶん故郷ふるさとくには、いつのころであろうとかんがえられたのです。おそらく、木々きぎがちってしまい、さびしい、さむふゆをどこかですごして、来年らいねんのことであろうとおもわれました。
今日きょうも、夕日ゆうひは、まち白壁しらかべめて、しずかにれてゆきました。
小父おじさんがくなられて、そののちは、おばあさんとむすめとでらしましたが、むすめはだんだんと大人おとなとなってゆきました。しかし、その時分じぶんとなっても、彼女かのじょ故郷ふるさとかえることはできなかったのです。
むすめ約束やくそくをした巡礼じゅんれいは、たしかに、その約束やくそくをはたしました。あるのこと、巡礼じゅんれいは、むすめまれたうちまえぎて、そこにって、むすめわたした、かみつつんだひまわりの種子たねわたし、「おむすめさんは、達者たっしゃでいられます。これをわたしおもってくださいといってわたされました。」といいました。
のものは、どんなにか、この巡礼じゅんれいをなつかしがってながめたでありましょう。そして、むすめにあったときのようすや、そのいえや、またまちさまなどをもたずねたでありましょう……。
母親ははおやは、年寄としよりになり、あねや、おとうとも、おおきくなり、あねは、ちかくのむらよめにゆきました。そして、むすめいえまえには、毎年まいねんなつになるとたかい、ひまわりのはながみごとにきました。西にしくにから、はじめてきたこのはなは、そのころこのあたりではめずらしいものでした。ひまわりのはなが、かって、あたまをうつすのをると、二ばんめのむすめ故郷ふるさとこいしがっているのだと、一のものはかなしくおもいました。としとった母親ははおやは、ほうせんかの種子たねぶのをては、二ばんめのむすめおもして、いつもなみだぐんだということであります。
――一九二五・八作――
 

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