二百十日
小川未明
空高く羽虫を追いかけていたやんまが、すういと降りたとたんに、大きなくもの巣にかかってしまいました。しまったといわぬばかりに、羽をばたばたして逃げようとしたけれど、どうすることもできませんでした。
縁先で、新聞を読んでいたおじいさんは、ふと顔を上げた拍子に、これが目に入ってじっと眼鏡の底から、とんぼの苦しがるのを見たのであります。
かわいそうにと、おじいさんは、思いました。年をとると、すべてのことに対して、憫れみ深くなるものです。そして、いまにもくもが出てきて、目の前で、とんぼの殺されるのを見るにしのびませんでした。
「正二や。」と、おじいさんは、孫を呼びました。自分にはどうにもならなかったからです。
あちらのへやで、明日の宿題をしていた正二は、何事かと思って、すぐに祖父のところへやってきました。
「なんですか、おじいさん。」
「あれ見な、いまやんまが飛んできて、くもの巣にかかったんだ。かわいそうだから助けてやんなさい。」
正二は、いつも、こんなようなことに出あったときは、人にいわれなくとも、自分から進んで助けてやる性質でありました。
「くもは、どうしたのか、出てきませんね。」と、正二は、不思議そうに、見上げていました。
「いや、どこかに隠れていて、やんまの弱るのを待っているのだ。なかなかずるいやつだからな。はやく助けてやんなさい。」
おじいさんは、まごまごしていると、やんまが、疲れて死んでしまうと思ったのでした。
正二は、勝手もとへいって、長い物干しざおを取って、裏の方へまわりました。庭には日ごろから、おじいさんの大事にしている植木鉢が、たなの上に並べてありました。彼は、それを落とさないように、自分の力にあまる長いさおを持ち上げて、垣根の際までいきましたけれど、まだそのさおの長さでは、くもの巣までとどきませんでした。
「おじいさん、だめですよ。」
やんまは、まだ生きていて、ときどき思い出したように、羽ばたきをしました。けれど、どうしたのか、くもはまだ姿を見せませんでした。
「さおが短いか、よわったのう。」と、おじいさんは、眼鏡の中から、小さな光る目で、やんまを見つめていられました。
「ああ、重い。」
正二、さおをドシンと垣根の上へ倒しました。そのくもの巣は、高い木立の枝から、隣家の二階のひさしへかけているので、隣の屋根へ上がるか、それとも隣の塀の上に登らなければ、さおがとどかなかったのでした。
「かまわずにおきましょうか。」
しかし、おじいさんには、知らぬ顔をしていることができませんでした。
「あちらの塀へ上がれば、とどくだろう。」
「僕、やだなあ。」
「いい子だから、助けておやり。なんでもおまえのほしいものを買ってやるから。」と、おじいさんは、いいました。
「ほんとう? おじいさん、僕にハーモニカ買ってくれる。」と、正二は、聞きました。このあいだから、おじいさんに、ねだっている品です。
「買ってやるから、助けておやり。」と、おじいさんは、いいました。
これを聞くと、正二は、一時は、うれしそうな顔つきをしましたが、急になんと思ったか、
「いいよ、おじいさん、僕買ってくれなくてもいいの。」といいながら、さおをかついで、隣の家の門を開けて入っていきました。
ちょうどそのとき、そろそろと糸を伝って、大きな黒いくもが、やんまに迫っていました。
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