人間と湯沸かし
小川未明
ある日のこと、女中はアルミニウムの湯沸かしを、お嬢さんたちが集まって、話をしていなされたお座敷へ持ってゆくと、
「まあ、なんだね、お竹や、こんな汚らしい湯沸かしなどを持ってきてさ。これは、お勝手で使うのじゃなくって?」
と、お家のお嬢さんは、目をまるくしていわれました。
お友だちの方も、その方を見て、みんなが、たもとを口もとにあてて笑われました。なぜなら、その湯沸かしは、黒くすすけて、まるでいたずらっ子の顔を見るように、墨を塗ったかと思われたほどだからです。
お竹は、気まりわるく、顔を真っ赤にして、その湯沸かしを持って、あちらへはいりました。そして、今度座敷用の湯沸かしに、お湯を入れ換えて持ってまいりました。
すすけた湯沸かしは、お勝手もとの冷たい板の間に置かれたときに、お竹はその湯沸かしを見て、かわいそうになりました。なぜなら、一日よく働いて、自分の身をきれいにする暇もなかったからです。それにくらべると、茶だなの上に飾られてある銀の湯沸かしや、たばこ盆や、その他のきれいな道具たちは、一日働きもせずに、じっとしていて、それでも、みんなに大事にされていました。そのことを考えると、彼女は、このよく働く湯沸かしが、かわいそうでならなかったのでした。
「ほかの人が、おまえをばかにしても、わたしだけはかわいがってあげるわ。ほんとうに、おまえばかりは、毎朝、わたしといっしょに起きて、いっしょに、よく働いてくれるのだもの。こんなにみんなのためにつくしていて、それでばかにされる道理はないはずだわ。ほかの道具たちこそ、怠けたり、ぼんやりして遊んでいたり、平常はなんの役にもたたなくていばっているのだから、しゃくにさわってしまう。ほんとうに、おまえの気持ちのわかるのは、この家では、わたしばかりかもしれないわ。」
といって、彼女は、湯沸かしをなぐさめたのであります。
ものをいわない湯沸かしは、ガラス窓から射し込むうすい日の光に照らされて、鈍色に沈んでいました。じっとしていると、疲れが出てくるものと思われました。
お竹が、同情をしたように、このアルミニウムの湯沸かしは、町から買われて、この家にきてから、すでに久しい間働いてきました。お竹が雇われてきてから一年あまりになりますが、もっとその以前から、あったものです。あるときは、炭火のカンカン起こる上にかけられて、煮立っていました。あるときはガスの火が、青白く燃え上がるところへ乗せられて、身にその炎を浴びていることもありました。さすがにこのときばかりは、忍耐強い湯沸かしも苦しいとみえて、うん、うん、うなり声をたてていたのであります。そればかりではありません。お嬢さんや、坊ちゃんたちは、すこしもこの湯沸かしにたいして、同情はありませんでした。犬や、ねこや、まりや、ハーモニカのようなものにたいしては、やさしい、しんせつなお子供さんたちでありましたが、どういうものか、この湯沸かしをかわいそうだとも、気の毒だとも思われなかったのでした。しかし、そんなにされても湯沸かしは、べつに不平をもらしたことはありません。それどころでなく、
「シン、シン、シン、シャン、シャン、シャン……。」と、おもしろそうに、またのんきそうに、火にかけられながら歌などを唄っていることもありました。
たとえ、どんなに体がじょうぶで、そのうえ忍耐強く、また、のんきな性質であっても、運命には敵することはできません。不幸な湯沸かしは、あまり体を乱暴に取り扱われすぎたせいもあって、ついに底の方に、小さな穴があいたのでありました。
ある日のこと、火の上にかかっていると、火から、湯沸かしは苦情を申されました。
「湯沸かしさん、そう私の頭から水をかけては困るじゃありませんか。せっかく、私たちは、これから楽しく燃え上がろうとしているのに……。」
と、火がいいました。
「いや、それは、私のせいではありません。もとをただせば、あなたたちが、あまりはげしく私の体を苦しめたせいです。」
と、湯沸かしは、答えました。
「そんないいがかりをするものでありません。いつ私たちは、あなたを苦しめましたか?」
と、火は赤くなって、怒り出した。この争いの最中、ふと気づいたのは女中のお竹でありました。
「あ、とうとう湯沸かしがもるようになってしまった。」
といって、火の上から離すと、穴のあいたところを指で押さえてながめていました。
それから彼女は、それを持って、主人たちのいる方へやってきました。
「奥さま、湯沸かしがもりますが、どういたしましょう。」
と、申しました。
「あまり、おまえが、手荒く使うからだよ。」
と、奥さまはいわれた。お竹は、悲しくなりました。すると、だんなさまが、そばから、「もう長く使ったから、底がうすくなったにちがいない。直しにやってもだめだろうから、新しく買ったがいい。それは捨てておしまい。」
といわれました。
お竹は、湯沸かしを持って、勝手もとへもどりました。だんなさまのいわれたように、いよいよこの湯沸かしを捨てなければならぬのかと思った。
彼女は、これまで、どれほど、この湯沸かしが役にたったかを考えました。また、自分がこの湯沸かしの熱くしてくれた湯で、痛むほど冷たい手をあたためたことなどを思い出しました。
「いろいろ、この湯沸かしの世話になったわ。」
と、彼女は、ひとり言をしながら、じっと、もはや傷ついて役にたたなくなった湯沸かしをながめていたのであります。
その日の晩方、奥さまは、町から、新しいぴかぴかした湯沸かしを買ってこられました。
「お竹や、大事におつかいなさい。」
といわれて、手に渡されました。
お竹は、穴のあいた、黒くすすけた湯沸かしを見て、かつて、これもこんなに、新しくてぴかぴか光っているときが、あったのだろうと考えたのでした。
「お竹や、古い湯沸かしは、もう役にたたないのだから、捨てておしまいなさい。」
と、あくる日奥さまに注意されたので、いよいよ、もう、この湯沸かしともお別れだと思って、それを持って、ごみ箱のところへまいりました。
ちょうどそのとき、一人のみすぼらしいおじいさんがかごをかついで、
「くずーい、くずーい。」
といって、門からはいってきました。そして、いま女中さんが、アルミニウムの湯沸かしをごみ箱へ捨てようとしているのを見つけて、
「ねえさん、それをお捨てになるのですか? もったいない。もしお捨てになさるなら、わしにください。穴があいていましたら直して、家で使います。磨けばりっぱになりますから……。」といいました。
お竹は、にっこりと笑って、くず屋のおじいさんの顔を見ました。すると、おじいさんは、
「私は、けっして、売りはいたしません。自分の家で大事にして使いたいのです。そしてこの湯沸かしがある間、ねえさんからおもらいしたことを思い出します。」
と、つづけていいました。
お竹は、快く、それをおじいさんにやりました。おじいさんは、たいそう喜んで、湯沸かしをもらって、しわの寄った指でそれをなでながら出てゆきました。彼女は後ろ姿を見送りながら、どことなく、正直そうなおじいさんだと思いました。もしおじいさんが、あの湯沸かしを直して使ってくれたら、湯沸かしは幸福だと思いました。また、まんいち、あれを、おじいさんが他人に売ったにしても、湯沸かしは、ごみための中に転がっているよりか、どれほどしあわせであるかしれないと考えました。
ほんとうに、おじいさんにもらわれていった湯沸かしは、この後、どんな生活を送るでありましょう。
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