ねずみは、すぐに
飛び
上がりました。そして、バケツの
中へ
飛び
込みました。いまは、
大きく
強くなって、そんなことをするのは、ねずみにとってなんでもなかったのであります。
彼は、そこにあった、うまそうなものから
食べました。そして、もっと、なにか
下の
方にはいっていないかと
思ったので、ガタ、ガタと、バケツを
鳴らしながら、
食べるものを
探しました。
「
痛い、
痛い、ねずみさん。どうか
静かにしてください。
私は、
体を
動かすたびに、
痛んでたまらないのですから。」と、バケツは、
悲しそうな
声を
出して
訴えました。
ねずみは、その
言葉をきくと、
哀れになりました。
「どうしたのですか? こればかし
動いて、そんなに
痛いというのは……。」と、ねずみはたずねました。
「ねずみさん、
私は、このながしに
長い
間役をつとめていました。そのうちに
体のところどころがさびて、
傷がついて、もう
水をいれる
力がなくなりかけた
時分に、セメンでその
傷口をうずめられました。その
後も、かなりしばらくの
間は、
私は、
役をつとめたのであります。いよいよだめになると、こんどは、ここに
出されてごみのいれ
物となりましたが、もう
体じゅうが
傷んでしまい、すこし
動くと、セメンを
詰めたところが
欠けて、
痛んで
痛んでたまらないのでございます。」と、バケツは
答えました。
ねずみはその
話をきいて、このバケツは、
自分の
子供の
時分に、
水を
飲もうとして
落ちたときに、まだぴかぴか
光っていばっていて、
無情であったのだということを
思い
出しました。しかし、このねずみはりこうなねずみでありましたから、いま、こんなふうになってしまったバケツに
対して、なにもいいませんでした。ただ
心の
中で、その
末路を
憐れんでいたのであります。
「それはお
気の
毒のことです。
私は、すぐにここから
出ますから。」といって、ねずみはバケツの
外へ
飛び
出して、
「ときにバケツさん、
昔、あなたといっしょであった
柄杓さんは、どうしましたか。」とききました。
「あの
柄杓ですか。あれは、
私よりも、もっと
早く、あまり
体を
使いすぎたために、
頭がとれて
役にたたなくなってしまいました。
人間は、そうなると、まことに
冷酷なものです。その
朝、
柄杓をどこかへ
捨ててしまいました。しかし、ひとごとでありません。
私がそうなるのも
近いうちです。」と、バケツは、まったく
前の
元気はなく、
悲しそうにいいました。
ねずみは、
自分にしんせつであった
柄杓の
最後をきいて、
胸がいっぱいになって、ものをいうことすらできませんでした。
そのとき、なんともいえぬ
甘そうなにおいが、どこからかしてきました。ねずみは
急に
鼻をひくひくさせました。
「あのうまそうなにおいは、どこからするのだろう。」と、あちこち
見まわしはじめたのです。
「ねずみさん、
油断をしてはいけません。
昨日の
昼間、
人間がねずみとり
薬を
食べ
物の
中へいれて、その
辺にまいたようですから……。」と、バケツはいいました。
「ありがとう……。そんなこととは
知らないものですから、
食べたらたいへんでした。」と、ねずみはいって、お
礼を
申しました。たとえ、りこうなねずみにせよ、それを
悟るはずがないからでした。
「ねずみさん、そればかりではありません。
毎夜、いま
時分……ねこがやってきますから
気をおつけなさい。」と、バケツは
教えてくれました。ねずみは、この
家の
付近にすむことの
危険をつくづくと
感じました。そして、やはり、
自分は、あの
溝の
淵に
帰るほうがいいと
思いました。ちょうど、
雨は
晴れて、
空には、
月が
出ていました。
「バケツさん、どうぞご
機嫌ようお
暮らしなさい。」と、ねずみは
別れを
告げて、ふたたびさびしい
町裏の
方を
指して
出かけました。
彼は、
道すがら、
昔の
敵であったバケツが、いま
年をとってやさしくなったのを
寂しく
感じました。
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