ねずみの冒険
小川未明
一匹のねずみが、おとしにかかりました。夜中ごろ天井から降りて、勝手もとへ食べ物をあさりにいく途中、戸だなのそばに置かれた、おとしにかかったのです。空腹のねずみは、あぶらげの香ばしいにおいをかいで、我慢がしきれなかったものでした。ねずみは、そのせまい金網の中で、夜じゅう出口をさがしながら、あばれていました。夜が明けると、ねまきを着た、この家の主人が、奥からあらわれました。
「大きいねずみだな。こいつだ、このあいだから、そこらをガリガリかじったのは。」
主人は、しばらく立って見ていました。
「どうしてくれようか。」
ものぐさな主人は、自分の手で殺さずに、ねこに捕らえさせることを考えました。それで、ねずみの入ったおとしを下げて、外へ出ました。
寒い朝で、路の上は白く乾いていました。前側の商店の小僧さんが、往来をはいていました。
「大きいやつが、かかりましたね。」と、ほうきを持つ手を休めて、ながめていました。
「ねこは、どうしました。」
「ねこですか? さあ、どこへいったか見えませんよ。」
「こいつをどうしようかな。」
「水の中へお入れなさい。」
「水の中へか。」
主人は考えこんでいました。バケツに水を入れなければならない。おとしの入る大きなバケツでなくてはならぬ。それから、死んだねずみの処置もしなければならぬ。いろいろのことが頭に浮かんで、めんどうくさくなってしまいました。
「バケツに水を入れて、つけたらいいでしょう。」と、小僧さんが、いいました。
「それがさ、やっかいなことだ。外へ出して、なぐったら死ぬだろう。」
「それは、死にますがね、ふたを開けたら、逃げやしませんか?」
「それもそうだ。よほどうまくやらなければな。」
こんな話をしているところへ、あちらから、自動車のブウ、ブウーという、警笛の音がしました。ものぐさな主人は、即座にいいことが思いついたのです。自動車にねずみをひき殺させようとしたのでした。
「これは、名案だ。」
主人はぐるぐるとおとしを、ふりまわして、中のねずみに、目をまわさせました。そして、自動車が近づいたときに、ちょうど車の下になりそうなところを見はからって、ふいに、ねずみを出しました。
驚いたのは、ねずみよりも自動車の運転手だったのです。正体のわからぬ、黒いものをひいてはたいへんだと思ったのでしょう、にわかにハンドルを曲げて、避けようとしました。だが、あまり急なために調子が狂って、片側の店頭へ突っ込んで、ガラス戸を破壊したのです。
主人も、小僧さんも、ねずみどころの騒ぎでありません。そのほうに気を取られている間に、ねずみは、どこへか逃げてしまったのでした。
助からぬ命と思ったねずみは、また天井裏のすみかに帰ることができました。しかし、ねずみは、これによって、人間というものは、自分たちのとうてい考えつかぬ不思議なことをするものだと思いました。とにかくここに長くいてはいけないと感じたのです。ちょうど、この屋根から、裏の空き地を横切って、あちらの倉庫の屋根へ、電燈線がつづいているのを発見しました。
「そうだ、この電線を渡っていけば、あちらの家へ、移ることができるのだ。」
ものぐさの主人を、てこずらせるほどの、元気なねずみですから、電線を渡っていこうと、冒険を決心しました。
人間が気のつかない昼ごろのことでした。ねずみは、一本の電線を渡りはじめました。落ちそうになると尾をくるりと針金に巻きつけて、体を支えました。
鳥や、獣物のすることは、人間のごとく、そうしくじりがないものです。しかし、だれもいないと思ったのがそうでなかった。空き地に勇くんと賢二くんが、すずめをさがしていたのです。しかも打つことの上手な賢二くんは、空気銃を持っていました。
「あっ、ごらん、ねずみがあんなところを渡っている。」と、先に見つけたのは、勇くんでした。すずめが電線に止まっていると思ったのが、あにはからんや、ねずみでありました。
「ねずみがこんなことをするかなあ。」と、賢二くんはこれを見て、むしろあきれていました。
「賢ちゃん、打つのは、およしよ。」
「ああ。」
賢二くんは、これを打つのはなんでもなかったが、ねずみのこの健気な冒険に対して、じゃまをする気持ちになれませんでした。
「渡ったら助けてやって、おっこちたら打つといいね。」
勇くんは、こういいました。賢二くんは、だまって、ただ、ねずみの渡るのを身動きもせずにじっと見守っていました。ねずみは、おどろくべき注意力をもって、とうとう渡りおわって、あちらの赤い屋根へつきました。このとき、思わず、二人は、手をたたいて、ねずみのために、成功を祝したのであります。
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