と、
先生はいって、また一
同をじろじろと
見まわしました。
長吉は
心のうちでどうか
自分はのがれてくれればいいがと、くびをすくめていました。
「
吉田さん、
出て、
第二
番めをお
書きなさい。」
と、
先生はいいました。
長吉はやっと
自分でなかったので
安心しましたが、
吉田と
呼ばれた
生徒と
自分とはわずかに二、三
人間を
隔てているくらいでありましたから、なんとなく
脱れがたいような
気がして
胸がどきどきいたしました。
吉田はぐずぐずしてすぐに
出ていかなかったので、いっそう
長吉は
気がいらいらして、もし
自分にあたったらどうしよう、このまえのときも
自分はできなかったのだから、きっとしかられるに
違いがないと
気をもんでいました。それでもついに
吉田は
出てゆきました。そして
黒板に
答えを
書きました。それは
滞りなくできていたので、
吉田の
顔は
華やいでうれしそうでありました。
「
今度は……
第三
番めを、
中村さん、
出てお
書きなさい。」
と、
俄然、
先生の
命令は、
長吉の
頭の
上に
落ちたのであります。
彼の
耳は
焼けるように
熱くなって、
急に
血が
上って
顔は
赫々となりました。
彼は
出ても
書けなかったから、いつまでもぐずぐずしていました。すると、
「さあ、
早くおいでなさい。あなたは、してこなかったのでしょう。このまえのときもしなかったじゃありませんか。」
と、
先生は、かんしゃくを
起こしていいました。けれど
長吉は
下を
向いて、
黙っていてついに
出なかったのです。
「よろしい。
今日は
帰ってはいけませんよ。
後にお
残んなさい。」
と、
先生は
怒った
声でいいつけて
手帳になにか
書き
入れました。
長吉は、もうしかたがなかったのです。
心のうちで
祈ったことがなんの
役にも
立たなかったのです。そしてその
日は、ほかの
生徒らが
勇んで
帰ってしまったにかかわらず、
独り
教室に
残っていたのです。
広い
教場の
中に、ただ
自分ひとりぎりになると
急に
四辺が
寒く、わびしくなって
見えました。いままでそこには
知った
顔があったのが、まったく
空漠となって
机だけがならんでいるばかりです。そしてうす
濁ったように
曇ったガラス
窓をとおして
外を
見ますと、
灰色の
寒そうな
空が
低く
垂れ
下がっていて、一
面に
下には
雪が
積もっているのでした。
だんだん
時がたつに
従って、
長吉は
心細くなってきました。そして、いまごろお
母さんは
自分の
帰りが
遅いからどんなに
心配していなさるだろうと
思いますと、かえって
自分は
気が
気でなかったのです。そのとき、
寒い
風に
吹かれてどこからともなく、からすが一
羽飛んできて、
窓ぎわに
立っていたかきの
木の
枯れ
枝に
止まりました。そして
小くびをかしげてこちらをのぞいて、
「あほう、あほう。」
とあざけるようにないて、またいずこへとなく
飛び
去ってしまいました。
長吉はもはや
胸の
中が
悲しみでいっぱいでしたから、これに
対して
怒る
気にもなれませんでした。
彼はただ
母親がどう
思って
心配なさっているだろうかと、そればかり
考えていたのです。
からすが
飛び
去った
後、まもなくすずめが二、三
羽やはり
同じ
枝にきて
止まって、
窓の
内側をのぞくようにしてないていました。しかしそれは、なんとなく
哀れな
長吉の
心のうちを
知って、それに
対して
同情しているように
思われましたので、
長吉は
窓のきわへいって、すずめのほうに
顔を
寄せて、
「お
母さんのところへいって、
私は
今日算術ができなくて
残されたからといっておくれ。」
と、
小声で
切に
頼んだのでありました。すずめはさながらこの
依頼を
聞き
分けたように、やがて
小声にないて、いずこへか
飛び
去ってしまいました。するとほどなく
先生がこの
教場に
入ってきました。
長吉は
先生の
前へ
呼び
出された。
「あなたは
勉強しないんでしょう。
勉強をしてわからない
道理がない。」
と、
先生はいいました。
長吉は、いったいだれがこの
算術の
法則を
考え
出して
作ったものか、よほどその
人は
偉い
人であると
同時に
迷惑なことを
考えたものだ。それがために
自分は、こんなに
苦しまなければならぬのだと
思いました。
「
先生、あなたが
算術というものをお
作りになったのですか。」
と、
長吉は
突然、
先生に
問いました。
先生は
驚いたというふうで、
「いいや、
私が
作ったのではない、
前からできていたのだ。」
と、
低い
体を
動かしながらいいました。
「
先生、なんでもうすこし
容易く
道理がわかるように、その
人は
算術を
作らなかったのでしょうか。
私には、むやみに
暗誦したり、
法則を
覚えてしまうことができないのです。」
と
長吉は、
先生に
向かって
訴えるごとくいいました。
「おまえばかりではない、みんながそれを
覚えて、りっぱにできるじゃないか。それをできないのは、やはりおまえが
勉強せんからなんだ。」
と、
先生はかえって
長吉をしかりました。
長吉はやっと
免されてその
日の
暮れ
方学校の
門を
出たのでありました。
彼は
路を
歩きながら、
算術や、
暗誦などのない、すずめの
世界やからすの
世界がつくづく
恋しくうらやましかったのであります。そして、なんで
自分はすずめに
生まれてこなかったろうかと
思いました。
彼は
先刻、
学校の
窓のところですずめに
向かって、お
母さんに
伝言をしてくれるようにと
切に
頼んだが、なにかいってくれたかしらと
思いながら
家に
帰ってきました。すると、
母親は、たいへんに
長吉の
帰りが
遅いので
心配して
門口の
雪の
上に
立って
待っていました。そして
我が
子の
顔を
見ると、
「まあ、どうしてこんなに
遅くなったのだ、
日が
暮れるじゃないか。」
と、
飛び
立つように
聞きました。
長吉は、
心の
中で、そんならあれほど
頼んだのに、すずめはなんにも、きてお
母さんに
告げてくれなかったのかと
思い、つくづく
鳥などというものは
真につまらないものだ。やはり
人間ばかりがいちばん
偉いのだということを
感じたのであります。
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