三
富士山は
紫色をおび、ゆったりと
長くすそを
引いていました。その
広いすそ
野のふちを、
青黒い
色の
海が、うねりをあげ、そして、もやのかかる
松林や、
白い
砂の
浜辺は、
浮き
織りの
模様のように
見えるので、さすがに
天女も、しばらくはわれを
忘れて、
見とれずにはいられませんでした。
天女は、それが、こうしてわざわいを
招くとも
知らず、
袂をひるがえすと、さっさとくじゃくの
舞うように、
人間のいぬのを
幸いに、
松原へ
降りたのであります。
すると、しめった
土のさわやかさ、
水晶をくだく
海の
水、
天女は、
心いくばかりそれに
親しまんものと、
足にまつわる
羽衣をぬいで
松の
枝へかけ、はだしのまま、なぎさの
方へ
走ったのでした。
そして、
冷たい
水に
足をひたしながら、ささやきつつ、
寄せては
返すさざ
波を
相手としてたわむれ、いつしか、
時のたつのを
忘れていたのでありました。そのうち、
東の
空がほんのりと
赤く
色づきました。それを
見て、
天女は、はじめて
朝日の
上がらぬうち、
天へ
帰らなければならぬと
気づき、
羽衣をとりに、
松原へ
引き
返したのでした。
ところが、その
大事な
羽衣は、いつのまにか、
人間の
手に
入っていました。このとき、
若者は、
「これほどお
願いしても、まだなんともおっしゃらぬのは、
私の
心がおわかりにならぬからでございますか。」と、
悲しそうにいいました。これを
聞くと
天女は、
「いえ、なんで、わからぬことがございましょう。
天と
地とわかれていても、
情けにかわりもなければ、また
善し
悪しや、
喜びや
悲しみにも、ちがいはないのでございますものを。」と、
答えたのでした。
「それなら、なぜ、
私の
願いを
聞いてはくださいませんか。」と、
若者は、いきいきとした
目を
天女に
向けました。
天女はためらいながら、
「
空にいる
私は、まったく、
地上のくらしを
知らないのでございます。」といいました。
「さっき、
情けにかわりはないと、おっしゃったではありませんか。」
「そう
申しましたのも、あなたの
真心がよくわかり、うれしく
思ったからです。そう
思えばこそ、なおさら、あなたを
幸せにしなければなりません。まったく、この
地上のくらしを
知らぬ
私に、なんで、あなたを
幸せにすることができましょう。」
「いえ、いっしょにいてさえくだされば、それで
私は
満足します。またそれが、どれだけ
私を
力づけるかしれません。
私は、
山へいって
薪もとってくれば、
海へ
出て
魚もとってきます。すこしもあなたに、ご
不自由をばさせません。」と、
若者は、あくまで
思いを
通そうとしました。
あわれな
天女は、なやみにたえかねてか、
顔には
花の
色があせ、
青白く、
急に
姿がやつれて
見えました。
これを
見ると、
若者は、
天女をいたいたしく
感じたのでした。そして、なんとなく、じっとしていられなくなりました。
「
天女さま、
私が
悪いのでございます。わがままをいって、あなたを
苦しめて
申しわけがありません。どうぞ、お
許しくださいまし。」と、
頭をひくくたれました。
すると、
天女は、
頭を
上げて、
「
人間は
人間のつとめをはたして、とうといのであります。もし、だれでもその
道をあやまるなら、どんな
不幸が
起こらぬともかぎりません。それゆえ、
早く
私を
空へ
返してください。」と、
目に
涙を
浮かべていいました。
若者は、
天女のどこまでもやさしく、
正しいのに
感心しました。そして、
自分が
悪かったのをさとると、こうして
立っているのさえ、なんとなく
気恥ずかしくなったのです。
「あなたは、
天にいらして、なにをなさっていられますか。」と、
若者は
聞きました。
「
私は、
神さまにお
仕えしています。
雲の
上にて、五
色の
機を
織ります。また、
神さまのお
使いで、ときどき、
星の
世界から
星の
世界へと、
飛びまわることもあります。」と、
天女は
答えました。
若者は、ていねいに
羽衣を
天女の
前へさし
出しながら、
「どうぞ、これをお
受け
取りくださいまし。ついては、こんなお
願いをするのも、まことにあつかましい
話ですが、せっかくのお
名残に、せめていつまでも、
美しい、
正しいあなたに、お
目にかかった
思い
出となるような、なにかおしるしをいただきたいのですが、かなわぬ
願いでございましょうか。」
「
私の
持ちますものは、すべて、この
羽衣のように、にじやかすみを
織って
作ったものだけに、
人間の
手にわたれば、いつまでも、
形となって
残ったことはありません。
下界にすさぶあらしや
雨にさらされるなら、たちまち、
破れてしまうでしょう。しかし、あなたのような
正直な
方には、
私のおあたえしたものは、いつまでも
心のうちへ
残り、あなたの一
生を、
楽しくおくらしさせることができましょう。」といいました。
「まあ、それは、どんなとうとい
品でございますか。」
「いえ、
形のあるものではございません。いまも
申しますように、
形のあるものは、いつか、やぶれくずれるものであります。
形がなくなって、
心に
残るものこそ、いつまでもこわれることのない
宝であります。」
「と、
申します
宝とは?」
「
人間の
考えでは、
絵にすら
書けない
天女の
舞を、ごらんに
入れたいと
思います。」
こう
聞くと、
若者の
顔は、
急にはればれしくなって、にっこり
笑い、
「
見たものは、この
世の
心配や、
年を
忘れると、
昔話に
聞いたが、まだだれも
見たと
聞かぬ
天女の
舞でございますか。それはありがたい。」といいました。
このとき、たちまち、どこからともなく
起こる
笛の
声、それと
相和す
太鼓の
音、
若者は、おもわず
頭をめぐらして、その
美しい
音色にうっとりと
聞きほれました。
見れば、もう
天女の
姿は、
空へと
浮かんでいました。
若者が、「あれよ。」というまに、
天女の
長い
袂はひるがえって、
若者のかしらの
上へたれさがり、そのはしが、
手でとらえられそうなところまでくると、ふたたび、まき
上がる
雲のように、
高くはなれて、
音楽も
急調子にはずみ、それといっしょに、しばらく、はげしく
舞いくるったのであるが、いつしか、しだいに
高く
高く、そのまま
姿は
遠く
小さくなり、ついに、かすみの
奥深く
消え
去ってしまったのであります。
いつのまにか、
美しい
音楽の
音もやんで、ただ、そよそよと
吹く
朝風のうちに、
音楽の
音が、いつまでもただよっていたのでありました。
浜辺の
砂の
上に、じっとしてすわっていた
若者は、やっと
夢からさめたように
立ち
上がり、
方々を
見まわしましたけれど、もうどこにも、
天女の
姿もなければ、
羽衣のかげもありませんでした。
そして、
広々とした
海原と、
青い
松林と、いつにかわらぬ
富士山があるばかりでした。
若者は、その
後、
長い一
生を
正しく、
楽しく
送ることができました。
彼は、
仕事につかれたときなど、いつも
大空を
仰いで、
天女を
思い
出しました。すると、ふしぎや、
天女は
雲の
上から、
星のような
目で
下界を
見つめて、なぐさめ、はげましてくれたのであります。
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