だまって
Kの
話をきいていた
Nは、たばこの
火がきえたのも
知らなかった。
「だれにも、にたような
話はあるのかな。それで、
苦しい
世の
中と
思っても、なお
生きようとするのは、いつか、いい
人間にめぐりあえるような
気がして、
美しいゆめがもてるからですね。」
Nは、こう
答えて、
上着のかくしから、なにかとりだしました。それは、
手ぬぐいにつつんだ
鏡のかけらでした。
「きみ、それは、どうしたの。」と、
Kがきいた。
「あすこで、ひろったのです。
Kさん、この
町はわたしに
思い
出がふかいんです。」と、こんどは
Nが、そのわけを
Kに
話してきかせたのです。
わたしは、おふくろがなくなった
後、どうすることもできず、おなじ
長屋にすんでいた、あんまさんのところで、せわになりました。わたしの
仕事というのは
毎日親方の
手を
引いて、あの
町かどのところへくることでした。そして、
親方が、
尺八をふく
間ついていて、
通りかかる
人が、お
金をくれるのをもらったのでした。
戦争前は、あすこに
大きくてりっぱなカフェーがありました。
夏の
日の
午後のこと、きゅうに
空がくらくなって
雷がなり、
雨がふりだしました。
「
夕立ちだから、じき、はれるだろう。」と、
親方はいって、
二人はカフェーの、のき
下へはいり、たたずんでいました。すると、ぴかりぴかり、いなずまのするたび
黒い
森や、でこぼこの
屋根が、うきあがって
見えるかと
思うと、
地球をひきさくようなすさまじい、
雷の
音がして、わたしはふるえながら、
親方の
手をひっぱって、もっとドアに
近く
身をよせようとしました。そうすればたきのようにふる
雨が、かろうじてよけられるからです。
このとき、とつぜんドアがあきました。
見ると、うすべに
色の
長いたもとの
着物をきた
女給さんが、ぱっちりした
目をこちらへむけ、
二人を
見ながら、
「そこではぬれますから、
早く
中へおはいんなさい。」と、いってくれました。
頭から
顔までぬらしながら、
親方は、ただもじもじしていると、そのねえさんは、わたしの
手をとらんばかりにすすめたので、
二人は、つい、すいこまれるごとく、ドアの
中にはいりました。そして、わたしは
生まれてはじめて、こんなに
美しく、かざりたてられた、たてものの
中を
見たのです。ふだんは、
風のふきすさぶたてものの
外に
立って、五
色にかがやくネオンをながめながら、
中からもれる、たのしそうな
音楽や
心のうきたつような
歌にききほれるだけで、
煉瓦のかべをへだてて、そこには、どんな
世界があるのか、
想像することもできなかったのでした。
「すこし、おかけなさいな。」と、ねえさんがいってくれたので、
二人は、かたすみのほうにあった、テーブルのわきへ、こしをかけました。
まだ、たくさんの
美しいおねえさんたちが、
立ったりかけたりしていました。わたしは、どこから、こんなうつくしい
人ばかりあつまってきたのかと、ふしぎに
思いました。わたしが、
目をみはっていると、また、さっきのおねえさんが、きて、
「わたしにも、ちょうど、あんたぐらいの
弟があるのよ。さあ、ひとつですけれど、おあがんなさい。」と、いって、
紙にのせて、おかしをくれました。
親方は
尺八をにぎりうなだれていたが、それに
気づくと、わたしにかわって、
礼をいってくれました。
しばらくすると、
雷も
雨も、わすれたようにやみました。
二人が、
外へ
出るころは、だんだん、
客がたてこんで、あちらでも、こちらでも、
笑い
声がきこえ、それとまじって、グラスのふれあう
音がしました。
あのときから、
何年たったであろうか、
戦時中、
空襲で、このあたりは
焼け
野原になってしまいました。きょう、カフェーのあとで、この
鏡のかけらを
見つけて、ひろいあげると、おりから
空にあらわれた
赤い
雲がうつって、わたしは、おねえさんのすがたを
思いだしたので、
記念にしようとポケットに
入れたが、
考えれば、やはりつまらんことですね。
と、
Nはいって、そのかけらを
道ばたになげすてました。
Kはこの
話をきくと、なんとなく
Nを、
他人のような
気がしなくなった。そして、
早くから
親をなくした
子というものは、すこしかわいがってくれるものがあれば、こんなにも
恋しく
思うものかと、つくづく
感じたのでした。
「そうさ。むかしのゆめなんか、なんにもならんよ。ふきとばして、
希望をいだいて
強く
生きぬこうぜ。ぼくたちは、もうはたらける
年になったんだもの、だれからも、ばかにされない。これから、おたがいに
力になろうよ。」と、
Nをはげますように
Kはいいました。
「ああ、ゆかいだ。きみと、どこへでも、いっしょにいきましょう。」と、
Nが
Kの
手をにぎると、
Kもまたかたくにぎりかえしました。
かれこれ、
休み
時間が、きれたとみえます。あちらから、トロッコの
走ってくる
音がしました。すると、一
同が
立ちあがった。
二人も、また、
元気にシャベルをもちました。
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