はてしなき世界
小川未明
ここにかわいらしい、赤ちゃんがありました。赤ちゃんは、泣きさえすれば、いつも、おっぱいがもらわれるものだと思っていました。まことに、そのはずであります。いつも赤ちゃんが泣きさえすれば、やさしいお母さんはそばについていて、柔らかな、白いあたたかな乳房を赤ちゃんの唇へもっていったからであります。
それから、まただいぶ日がたちました。
赤ちゃんは、もとよりまだものがいえませんでした。ただ手まねをしてみせたばかりです。赤ちゃんは、なにかお菓子がほしいと、小さなかわいらしい、それは大人の口なら一口でのんでしまわれそうな、やわらかな掌を振って、「おくれ。」をいたしました。
すると、なんでも、よく赤ちゃんの心持ちがわかるお母さんは、いつでも、赤ちゃんの好きそうな、そして毒にならないお菓子を与えました。それで、赤ちゃんは、いつもお乳が飲みたければ、すぐにお乳が飲まれ、またお菓子がほしければ、いつでもお菓子をもらうことができたのです。
赤ちゃんは、そう都合よくいくのを、けっして不思議ともなんとも思いませんでした。そして、むしろそれがあたりまえのように思っていました。というのは、お母さんがそばにいなかったときでも、おっぱいがほしいといって、すぐにもらわれないと怒って泣いたからです。
あるとき、赤ちゃんは、だれもそばにいなかったとき、茶だんすにつかまって立ちながら、たなの上に乗っている、めざまし時計をながめました。時計は、カッチ、カッチ、といって、なにかいっていました。赤ちゃんは、不思議なものを見たように、しばらく、びっくりした目つきで、黙って時計を見ていました。そして、赤ちゃんはにっこりと笑いました。赤ちゃんは、時計がなにかいって、自分をあやしてくれると思ったのです。赤ちゃんは、時計をいつまでも見ていました。時計はしきりに、なにか赤ちゃんに向かっていっていますので、赤ちゃんは、幾たびもにっこりと笑って、時計に答えていました。そのうちに、赤ちゃんは、お菓子がほしくなりました。それで、かわいらしい右手を出して、時計に向かって、「おくれ。」をしました。
円い顔の時計は、ちょっと頭をかしげて、笑い顔をしましたが、なんにも赤ちゃんに与えるものを、時計は持っていませんでした。赤ちゃんは、幾たびも幾たびも「おくれ。」をしました。しかし、なんの応えもなかったのです。このことは、どんなに、赤ちゃんをさびしく、また頼りなく感じさせたかわかりません。そして、そのとき、急に赤ちゃんは、お母さんがなつかしく、恋しくなりました。
赤ちゃんは、急に泣き顔をしました。そして、身のまわりを見まわしましたけれど、そこにはお母さんがいませんでした。さびしさをこらえていたのが、ついに我慢がしきれなくなって、赤ちゃんは大きな声をあげて泣き出しました。すると、お母さんは、驚いて、走ってきました。
こうして赤ちゃんには、お母さんが、だんだんはっきりとわかってきました。
お母さんがわかると、一刻もお母さんから離れるのは、赤ちゃんにとって、このうえなく悲しかったのであります。けれど、お母さんは、赤ちゃんが、独りで遊ぶようになると、いろいろ仕事があって、忙しいので、そういままでのように、赤ちゃんのそばにばかりは、ついていることができませんでした。
お母さんは、お勝手や、洗濯をなさるときには、細かいこうしじまのエプロンを着ていなさいました。赤ちゃんは、お母さんが、そのこうしじまのエプロンを着なされた姿を見るのが、なによりも悲しく、さびしかったのです。赤ちゃんは、エプロンを着なされると、お母さんが、あっちへいってしまわれるのを知ったからです。そして、お母さんが、そのしまのエプロンを脱ぎなされた姿を見たときは、また、どんなにうれしかったでありましょう。お母さんは、すぐにここへきて自分を抱いて、おっぱいをくださることがわかったからです。
それで、赤ちゃんには、なによりもいやな憎らしいものは、その汚れた、こうしじまのエプロンでありました。
赤ちゃんは、エプロンを見ると、かんしゃくを起こしたり、だだをこねたりしました。
「ほんとうに、赤ちゃんは、エプロンが大きらいなのね。」と、お母さんは笑いながらいわれました。
赤ちゃんは、いつのまにか、家の人たちが知らないまに、エプロンを縁側から地面に落としてきました。しかし赤ちゃんの捨てたり、隠したりすることは、お母さんにとってなんでもありませんでした。いつでも必要なときは、すぐに見つけられたからであります。
ある日、お母さんは、汚れたエプロンを洗濯して、庭さきのさおにかけておきました。すると、エプロンから、しずくが、ぴかぴかと光って、幾つとなく落ちては、また後から後からと落ちたのでありました。
赤ちゃんは、座敷にちょこなんとすわっていながら、まぶしそうな目つきをして、エプロンがさおにかけてあるのをながめていました。どんな気持ちで赤ちゃんがそれをながめているか、知ったものはありません。
しかし、赤ちゃんは、憎らしいエプロンだと思っていたには相違ないと思われます。短い日であって、一日には、そのエプロンはよく乾きませんでした。そして、日暮れ方から風が出てきて、天気が変わりかけたのであります。
エプロンが、さおにかかって、ひらひらとなびいているのを、その日の晩方、赤ちゃんはもう一度、縁側の障子につかまって立ちながら見たのでありました。
やはり、だれも、そのときの赤ちゃんの心持ちを、知るものはありませんでしたけれど、赤ちゃんは、うんとエプロンが風に吹かれて、風が、あのエプロンを遠い、もうけっして見つからないところへ、持っていってくれればいいと思ったでありましょう。
エプロンはまだぬれてもいたし、また惜しい品でもなかったから、そのままにして家の内へいれずにおきますと、その夜雨風が吹き荒れて、ほんとうに夜の間に、エプロンは、どこへか飛んでいってしまったのです。
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