三
幸吉が
店へ
帰ると、
仕事場に
立っていた
叔父さんは、さも
手柄顔をして、
「ジャックの
奴、うまく
物置へ
入れて
閉めてしまった。いまに
犬殺しがきたら
引き
渡してくれるのだ。」といいました。
幸吉は、これをきくと、どきっとしました。なにか
真っ
黒な
手で
胸を
押さえつけられたような
気味悪さを
感じました。「
赤トラ」の
話に
強く
心を
惹かれたのも、このジャックという
年老いた
不幸の
野犬のことが、たえず
頭の
中にあったからでした。
叔父は、どういうものかジャックを
心から
憎んでいるのでした。それにはたいした
理由があるのでなく、ただこの
哀れな
黒い
毛の
汚れた
老犬を
見ると、むらむらと
憎くなるというふうでした。
幸吉は、それを
怖ろしいことのように
思いました。
幸吉は、あるときには、たまりかねて、
叔父さんの
顔を
見上げながら、
「
叔父さん、ジャックをかわいがっておやりよ。かわいそうじゃないか。」といいました。
「どういうものか、あいつはきらいでな。ひどいめにあわせてくれなけりゃ。」と、
叔父は、
金づちを
手に
握って、きたら
投げつける
身構えをしていました。
「なにも
悪いことをしないじゃないか。」と、
幸吉は、つくづく
叔父さんの
顔を
見て、どうしてこの
哀れな
犬だけに
無情なことをするのだろう、ほかの
犬には、やさしくしてやるのにと
思ったのでした。
「あいつが、
植木鉢に
小便をかけたし、いつかくつが
片方失くなったのも、きっとあいつがどこかへくわえていったのだ。」と、
叔父は、
答えたが、なんの
理由もつけずにいじめるのは、
自分でも
気がとがめるからだと、
幸吉には、
思われました。
しかし、いまはそんなときでない。ジャックが
物置の
中に
入れられて、
戸を
閉められたときいては、じっとしてはいられなかったのです。
「なんで
物置の
中へ
入ったのだろうな。」と、
幸吉は、あの
年を
取っていてもりこうで、
敏捷な
犬がと
不思議に
思いました。
「
犬殺しに
追われてきたんだ。
逃げ
場がないので、
物置の
中へ
隠れたのだよ。」と、
叔父は、ところもあろうに、おれの
家の
物置の
中へ
隠れたのが、あいつの
運の
尽きだったと、せせら
笑いをしていました。
幸吉は、またかわいそうに、
自分が
平常ジャックをかわいがってやるものだから、
助けてくれると
思って、
家の
物置にきて
隠れたのだ。もし、このまま
犬殺しに
引き
渡してしまったら、ジャックはどんなに
自分をうらむかしれない。よし、
助けてやろうと、
決心しました。
あちらで、しきりに
犬の
遠ぼえをする
声がしていました。
犬殺しが
近づいてきたのを
警戒して、
仲間に
知らせているのです。
幸吉は、すぐに
裏手へまわりました。
彼の
足音をききつけると、
暗い
物置の
中から、
訴えるように、すすりなく
犬の
悲鳴がしました。
「ジャック!
早く
遠くへ
逃げろ。」
幸吉が、
戸を
開けると、
黒犬は、
弾丸のように
飛び
出して、
叔父さんが、
仕事をしている
店先のブリキ
板を
蹴散らして、
路次を
抜けて
原っぱの
方へ
逃げていったのです。
「ばかやろう、なんで
犬を
出したのだ!」と、
叔父さんは、
幸吉の
頭をなぐろうとしました。
幸吉は、
手の
下をくぐって、
自分も
犬の
後を
追って
逃げたのであります。
しかし、ジャックの
姿は、どこにも
見えませんでした。
彼は、
町を
離れたさびしい
原っぱの
中に
立って、
口笛を
鳴らしました。どこへいってしまったか、ジャックはやってきませんでした。
いつも、こうして
口笛を
吹けば、
遠くからききつけて、
駆けてきたものです。
彼は、
家無しのジャックを
思うと、
心の
中が
悲しかったのでした。
幸吉は、しばらく
茫然として、
考えながら
立っていました。あちらに
見える
高い
煙突は、
町のお
湯屋か、それとも
工場の
煙突らしく、
黒い
煙が
早春の
乳色の
空へ、へびのようにうねりながら
上がっていました。
「あ、
田舎の
家へ
帰りたいな。」
幸吉は、
自分には、
帰る
家があるのだと
思いました。そう
思うと、しみじみと
故郷の
村が
恋しくなりました。
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