母の心
小川未明
この前の事変に、父親は戦死して、後は、母と子の二人で暮らしていました。
良吉は、小学校を終わると、都へ出て働いたのであります。ただ一人、故郷へ残してきた母親のことを思うと、いつでも熱い涙が、目頭にわくのでした。
「いまごろ、お母さんはどうなさっているだろう。」
仕事をしていても、心で、ありありと、あのさびしい松並木のつづく、田舎道が見えるのでした。橋を渡り、村からずっとはなれた、山のふもとに自分の家はあるのです。まれには、一日じゅう人と顔を合わさぬこともあります。急に母親が病気となっても、村へ知らせるものがないと思うと、良吉は、遠くにいても気が気でないのでした。
母親も、また、同じように子供を思っていたのです。身寄りのない旅へ出て、さだめし不自由をすることだろう。どうか達者で働いてくれればいいがと、明け暮れ仏さまを拝んでいました。それで、良吉は、自分が達者でいることを知らせるために、毎日読んだ新聞を故郷へ送ることにしました。
「お母さん、手紙でなくても、新聞がいったら、私が無事でいると思ってください。」といって、やりました。すると、その後母親から、
「毎日、おまえから送ってくれる新聞を、ありがたく思っています。」と、喜んできました。親思いの良吉には、母親の喜びが、なにより大きい自分の喜びだったのです。
彼は、仕事を終えると、毎夜、新聞をポストへ入れにいきました。凍てつくように冴える星空をながめて、
「故郷は雪かもしれない。寒い晩だが、お母さんは、もうお休みになったかしらん。」と、思ったのでした。
良吉の出した新聞は、翌々日の朝、隔たった町の郵便局から、配達されました。いつも、それは、昼すこし前の、時刻にきまっています。
母親は、戸口に立って、「もう新聞のくる時分だ。」と、あちらをながめていると、こちらへ急いでくる、配達人の姿が見えます。わき見をせずに、せっせとやってきます。
「郵便。」といって、息子からきた新聞を手渡すとまた、せっせときた道を村の方へもどっていくのでした。その年ごろは、ちょうど良吉と同じくらいの少年でありました。
母親は、良吉が書いた上封の文字をじっとながめて、すぐにそれを破ろうとはしませんでした。
「二日めで、はやこうして届く。遠いといっても便利の世の中じゃ。」と、母親は、まだ汽車のなかったときのことを、考えていました。
秋の末ながら、お天気の日は、黄色くなった田や、丘に、陽が当たって、なんとなくのどかな感じがしたが、みぞれが降り出すと、少年の配達夫は頭がら雨具をぬらして入ってきました。
「郵便屋さん、すこし休んで、お茶でも飲んでいってください。」と、母親は、いいました。
「時間までに帰らなければなりませんから。」と、少年は、新聞を置くと、急いで、いってしまったのです。
ある日、良吉のところへ、母親から手紙がまいりました。
「あ、お母さんからだ。」といって、良吉は、押しいただいて封を開けてみました。
「寒くなったが、変わりはありませんか。私も無事に日を送っていますから、安心してください。
おまえから、毎日新聞を送ってもらってありがたいが、このごろ、私が目がわるくなって、つづけて読めないし、それに、こちらは毎日みぞれや、雪まじりの風がきびしく吹いています。その中を、新聞一つで、わざわざ遠くからきてくださる配達さんにお気の毒ですので、どうか、十日めぐらいに一回送ってくだされば結構です。ただおまえの安否がわかればいいので、この後は、毎日送ることは見合わせてください。」と、書いてありました。
「やさしいお母さんだ。それなら、十日めぐらいに、絵の雑誌でも送ってあげよう。」と、母親の気持ちをよく知っている良吉は、毎日新聞を送ることをよしたのでした。
毎日くる新聞がこなくなってから、母親は、なんとなくさびしい気がしましたが、これで、少年配達夫が、いくらか助かるだろうと思うと、また、うれしい気がしました。すると、しばらくめで、郵便を持ってきた少年が、
「おばあさん、このごろ、どうして息子さんのところから、新聞がこないのですか。」と、ききました。母親は、笑いながらありのままを話すと、
「そんなご心配なら、してくださらなくていいのです。」と、少年の目には、涙が光ったのでした。ほかの子供に対しても変わらざるやさしい母親の愛に感激したからです。
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