二
ふと、彼は、この時清水の湧き出る音を聞き付けた。この沙原に清水のあることが解った。水の音は
何方からともなく聞えて来る。耳を左に傾ければ左の方に当って聞えた。その方へと歩んで見ると、水の音は、どうやら右の方に当って聞える。地底から湧き出て、沙を吹き上げる泡立つ音は、さながら手に取るように聞えて来る。その時右の方に歩みを変えた。すると水の音は、後方になって、次第に遠ざかるようにも思われた。
彼はただこの泉を見出しさえすれば、また自分の行くべき道が其処から見出されると考えたのである。必ずこの泉の辺りに来た人は自分が
始てな訳ではない。既に幾人もこの泉を汲んだであろう。
其等の人々の踏んで来、踏んで去った足跡は、自然、微かな道となって、この
仄白い月の下に認めることが出来るだろう。
この時、月は雲に
掩われた。一面に沙原は薄暗くなった。
而して月を隠した雲の色は、黒と黄色に
色彩られて、黒い鳥の翼の下に月が隠れたように見えた。
身に
悪痛みを感ずるような寒気が沙原に降る。怖れと
愕きに
何れの方角を撰ぶという余裕がなかった。彼は闇の中に幾たびか
躓いた。そのたびに柔かな沙地に
跪いた。最後に、急な崖から転倒した。
刹那に冷汗が脊に流れた。自分では深い、深い谷に落ち行くような気がしたが、不思議に怪我もせずに沙の中に倒れた。
彼は、倒れたまま空を仰ぐと、月は、黒雲を出て以前と同じように沙原を照らしている。其処も同じく沙地であったが、丘が見えない。
平な沙地が、地平線の遠くにまで接している。南の方と思われた。雲の
裾が明るく
断れて、上は濃い墨を流したように厚みのある黒い線を
引ている。
さながら、その地平線に咲き出た花のように、一輪の花が眼の前に頭を
擡げている。
彼は、十歩余りで、その花に近づくことが出来た。それは病めるようなこの
朧ろ月の下に咲いた黄色な
薔薇の花であった。
この時、水を
探ねたように香を嗅ごうと焦った。而して花に鼻を触れて見たけれど、花には何の香というものもない。
誰か造り花をこの沙原に来て挿したのではあるまいか。
急に、南の風が吹いて来た。明るく一直線に雲断れのした空は物凄かった。南の風は、人間
若しくは、これに類した死ぬべき運命を持った生物の、吐く息のように生温かであった。急に頭が重くなって眼が
暈るように感じた時、眼前に咲いた黄色な薔薇の花は、歯の抜けるように音なく花弁が朽ちて落ちた。
分享到: