三
この夢の与えた印象を忘れることが出来ない。
何となれば、母は間もなく死んだ。
彼は、この時から「前兆」ということを考えた。今迄迷信と思って居た世の中の不思議な話が事実あり得べきことのようにも思われる。而して
終には霊魂の不滅というようなことも信ぜぬ訳には行かなくなった。彼は寺の傍を通る時は、きっと何か考えて歩いた。夜、独り戸外に出る時は、きっと或る一種の不安に心が曇るのを覚えた。而して眠る時も、枕を東にするか西にするかと惑うようになった。
而して、人に
遇うたびに不思議な怖しい話を知らないかと聞いて迫った。人がその様な怪談をする時には、きっと彼の顔は青ざめて、窓の外に誰か自分を待っているように体をもじもじさせながら怪しく眼が輝くのが常であった。
彼の友達は、彼を神経病だと言い始めた。
或年の夏もやがて過ぎんとする時、この青葉に繁った村へ一人の若い
巫女が入って来た。自からはその女を見なかったが人々の噂によれば、眼が黒く大きくて、頭髪が
鳶色に縮れていて頬が紅かったという。けれどこの村の人でその巫女を見た者は真に
僅かばかりに過ぎなかった。
子供
等が
桑圃の中で、入日を見ながら遊んでいると黒い人影が、
真紅に色づいた彼方の細道を歩いて来た。それがこの巫女であった。巫女は子供等に向って隣村へ出る道を聞いたそうだ。
ちょうどこの時、村の或る一軒の家で、娘が大病に
罹っていた。命がとても助らないと知って親類の人々がこの家に集っていた。一室の
裡は
簷に垂れかかった青葉の蔭で薄暗かった。何となくしんめりとして水を打ったようであった。病める娘は、痩せ衰えて、床の中から顔を出していた。もはや、眼を見開いて、人々の顔を探ねる程の気力もなかった。既に意識は遠くなって、霊魂はこの現実の世界から、
彼の夢の世界へ歩いていた。
人々は、心配そうな
顔付をして互に黙って独りこの世を離れて行く、娘の臨終の有様を見守るばかりであった。
巫女は、脊に小さな箱を負って村を通った。娘の叔母がこれを見付けて家に
連て来た。その時は、もはや娘は眼を閉じて最後の脈が打ち収めた時であった。一室の裡には、母親が泣き、妹が泣き、親類の人々も泣いて、娘の
枕許には香が
焚かれて、香りが冷かな夕暮方の空気に染み渡って、青い
蝋燭の焔が風もないのに揺れるように思われた。
窓からは、木々の青々とした梢を透して夕焼の色が
橙色に褪めかかっている。
巫女は、死んだ娘を呼び戻すと言った。而して枕許に坐って咒文を唱えた。人の魂いまでも引付けるような巫女の顔は、物凄くなって、見ている人々は顔を
反けたという。
刹那、地震が地球を襲って家を
揺った。人々は驚きの
瞳を見張ると死んだ娘は、深い溜息を吐き返した。而して閉じた眼を大きく見開いて、床の上に起き直って
眤と母親の顔を見て物を言おうとした。母親は、喜んで娘に抱き付いた。而して、
「オオ、息を返してくれたか。助ったか。」といって、余りの嬉しさに娘の顔を見てしみじみと泣いた。
涙は、娘の痩せた頬の上に落ちた。眼を見開いて、母親の顔をさも
懐しげに眺めていた娘は、再び静かに眼を閉じてしまった。もはや、口を
耳許に当て娘の名を呼んだけれど何の
応えもなかった。
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