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薔薇と巫女(5)
日期:2022-12-06 00:26  点击:220
 

彼は、秋の末に南方のXの町に着いたのである。
白壁造の家は夢のように流れの淵に並んでいた。水は崖の下にむせんでいた。水色の夜の空は、白い建物の間からあらわれ出て、星は穿うがたれた河原の小石のように散っている。瓦や亜鉛の家根やねの上を月の光りが白く照した。
彼は、この白い静かな町の中をあてなく歩く小犬のように、白い乾いた往来の上に、みすぼらしい影を落してさ迷った。而して巫女の家を見舞おうと思った。
或日、遂にその旧家を見出すことが出来た。町から程隔った小高かな処にある。彼は、月の冴えた晩にその家の門に辿り着いた。
もはや、話に聞いた彼の利巧な老人は死んでしまったという。幾年前に死んでしまったのか分らない。んでも或日、老人は門の扉にりかかって、横木に手をかけた儘、堅く死固しにかたまっていたということだ。今は、誰も門を護る人がないと見える。半ば朽ちた大きな灰色の門は左右に明け放された儘、空しく青い月の光りを通していた。奥深く繁った木立は、今や葉が落ち尽している。黒く悪魔のように立っているのは常磐木ときわぎの森であった。
最初Xの町の人に聞くと、「幽霊家敷やしき」を問うのだと言った。その時、彼は心のうちで年若い巫女のことをいうのであろうと思った。何となれば巫女は、奇蹟を行って人を驚かしたからだ。彼はその様な女を見たいと思った。而してその様な女に愛されたいと思った。この好奇心は、彼を臆せずに秘密の門の中に導いた。ただ巫女の黒い大きな瞳で眤と見詰められたい。魔女の手に抱かれて、その鳶色の縮れた長い頭髪の下に顔を埋めたい。而して紅い頬と熱い唇に触れて見たいと胸の血潮がおどった。
彼は、百人の普通の人に愛せられなくても、異常な力を持った悪魔に可愛がられたならば、もはや、自身はこの世に於て孤独な人でない。
微かな細い道は、奥の方へ縷々るるとしてつづいている。いつこの道を人が歩いたか、余程久しい前から、足跡が絶えたと見える。草が生えて、全く道を消そうとしていた。
独りとぼとぼと月の光りを頼りに覚束おぼつかなげな道を辿った。天地は寂然ひっそりとして、草木も息を潜めている。ただ青い輝く月光が雨のように降って来るのを眺めた。月光はすべての森や林を神秘の色に染めている。彼は遂に道の消えた処まで歩いて来た。其処には大きな礎石そせきがあった。古い大きな建物のあった跡であった。常磐木の森の暗い影に隠れて古い沼がある。半分姿を現わした沼の面が、月光に照らされて鱗のように怪しく底光りを放っていた。
小鳥も啼かなければ、風の吹く音もしなかった。全く昔の建物は跡形あとかたもなく亡びている。旧家の人々は何処にいるか? 座敷牢に入れて人目に触れさせるのを恥じたという、凄い美しい不思議な娘は、姿を何処に隠しているか。声を上げて呼んでも木精こだまより、何の答えもなかった。
小鳥の巣の下に立って物を言ったり、蛙を掌に載せて笑ったりした娘の姿は、この寂然とした広い家敷の中には見えなかったのである。

彼は、礎石の上に腰をかけてコオロギの啼声を聞いていた。而して荒れ果てた昔の秘密の園を眺めた。
冬が近づいたと見えて月の光りが白くなった。

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