春風の吹く町
小川未明
金さんは、幼い時分から、親方に育てられて、両親を知りませんでした。らんの花の香る南の支那の町を、歩きまわって、日本へ渡ってきたのは、十二、三のころでした。街はずれの空き地で、黒い支那服を着た親方は、太い鉄棒をぶんぶんと振りまわしたり、それを空へ高く投げ上げて、上手に受け取ったり、また、片方の茶わんに隠した、赤や白の玉を、別の茶わんへかけ声一つでうつしたりして、群がる人たちにみせていました。また、金さんは、でんぐり返りをしたり、逆立ちをしながら、茶わんの中の水を飲んでみせたのでした。親方は、日本はいいところだといっていました。
ある日のこと、急に気分が悪いといって、親方は宿へ帰ると床につきました。金さんは、どんなに心細く感じたでしょう。お薬を買いにいったり、氷で頭を冷やしたりして、小さい子供の力で、できるだけ看病をしました。親方は、しわの寄った目じりに、涙をためて、
「おまえのことは、さっき、よく宿の人に頼んでおいた。日本の人は、困ったものを見殺しにしない。私が、もし死んだら、おまえは、正直に働いて、日本を自分の生まれた国と思って、永く暮らすがいい。」と、いい聞かせました。
金さんは、その後、遺言を守って、本屋の小僧さんとなり、よく辛棒をしました。そして、一人まえになってから、小さな店を持ったのであります。金さんは、親方も、自分のように、両親がなく一人ぽっちだったこと、気短で、しかられるときは怖かったが、人情深い、いい人だったことなど、思い出しました。金さんは、お仏壇に親方の写真を祭って、命日には、かならず燈火を上げて拝んだのです。
町の子供たちが、店頭に並べておく絵本や、雑誌をひろげて見ても、金さんは、小言をいいませんでした。子供たちが笑うと、自分も笑って見ていました。子供たちが帰ると、またきれいに、本を並べ直したのです。毎日のように店へ遊びにくる子供の中に、良ちゃんといって、ようすの貧しげな子供がありました。その子は、いつも金太郎さんの絵本を、きまって手に取り上げて、飽きもせずながめていました。そして、くまとお相撲を取るところへくると、うれしそうな顔つきをして、笑いました。
ほかの子供は、本を見てしまうと、そこへ投げ出していってしまうけれど、良ちゃんだけは、ちゃんともとのところへ置いて帰りました。
「おれにも、あんな子供の時分があったのだ。」と、考えると、金さんの目には、人通りのはげしい、油のこげつく臭いが漂う、狭い夕日の当たる町の景色が浮かんでくるのです。足が疲れて歩けないのを、親方が手を引いてくれて、一軒の食べ物屋へ入りました。そこで鶏の肉のご飯を食べた。そのうまかったのが、いまだに忘れられないのでした。
金さんが、正直で、いい人なものだから、店には、いつもお客がありました。故郷の人とも友だちができれば、また学生さんにも友だちができました。お嫁さんをもらえとすすめる人があるけれど、金さんは、まだ早いといって、一人で暮らしていました。金さんは、独りで、考えているのが好きなのです。
「おじさん、金太郎さんの本は、もうなくなったの?」
ある日、良ちゃんが、聞きました。どこか本の下になったのでしょう。
「ありませんか。」と、金さんは、下りて、さがしてやりました。
「僕、昨夜、金太郎さんの夢を見たから、飛んできたんだよ。」と、良ちゃんは、一人でした。
「そんなに金太郎さん好きですか。あんたにあげましょう。」と、金さんは、古い絵本を良ちゃんに与えました。良ちゃんは、おどり上がるようにして、喜んで帰りました。
良ちゃんの家は、病気のお父さんと、働きに出かけるお母さんとでありました。良ちゃんは、一冊の本も容易に買ってもらえなかったのです。
その日の晩でありました。仕事から帰ったお母さんが、良ちゃんをつれて本屋さんへやってきました。良ちゃんの顔には、泣いたあとがあって、昼間与えた絵本を抱いています。
「この子が、ご本をもらったといって持ってきましたが、ほんとうでしょうか?」
「ほんとうです。金太郎さんが、お好きのようですから、あげたのです。」と、金さんは、笑って答えました。
「ありがとうございます。それなら、いいですけれど。」と、お母さんは、喜んで、お礼をいって、帰りました。後からついていく良ちゃんの顔も、いきいきとしていました。
金さんは、かぜをひいて臥ました。店も半分閉めてあります。いちばん心配したのは毎日遊びにくる子供たちでした。
「おじさん、どこがわるいの。」
「おじさん、ご用があったら、お使いにいってあげるよ。」
いろいろと、上がりがまちから、奥の方をのぞいてなぐさめました。金さんは、うれしく思いました。日暮れ方には、良ちゃんのお母さんが、みまいにきました。
「私には、はらん[#「はらん」はママ]の実がいちばんきくのですが。」と、金さんが、苦しそうに、いいました。子供の時分にもはなはだしい熱のとき、親方が、らんの実を煎じて飲ましてくれて、なおったことを思い出したのです。
「らんの実ですか、さがしてあげますよ。」
良ちゃんのお母さんは、金さんのために、翌日、らんをたずねて方々を歩いたのでした。
一人のおじいさんがあって、らんのほかに、いろいろの薬草を作っていました。
「これは、去年生った実です。」といって、らんの実を分けてくれました。また、良ちゃんのお父さんの、胃の病気によくきくという草も分けてくれました。このとき、お母さんには、おじいさんの顔が、神々しく見えたのです。そして、他人のためにしたことが、かえって自分のためになったとうれしかったのであります。
吹く春風にどこからともなく、いい花の香りが流れてきて、林の中では、小鳥が楽しそうにさえずっていました。
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