百姓の夢
小川未明
あるところに、牛を持っている百姓がありました。その牛は、もう年をとっていました。長い年の間、その百姓のために重い荷をつけて働いたのであります。そして、いまでも、なお働いていたのであったけれど、なんにしても、年をとってしまっては、ちょうど人間と同じように、若い時分ほど働くことはできなかったのです。
この無理もないことを、百姓はあわれとは思いませんでした。そして、いままで自分たちのために働いてくれた牛を、大事にしてやろうとは思わなかったのであります。
「こんな役にたたないやつは、早く、どこかへやってしまって、若いじょうぶな牛と換えよう。」と思いました。
秋の収穫もすんでしまうと、来年の春まで、地面は、雪や、霜のために堅く凍ってしまいますので、牛を小舎の中に入れておいて、休ましてやらなければなりません。この百姓は、せめて牛をそうして、春まで休ませてやろうともせずに、
「冬の間こんな役にたたないやつを、食べさしておくのはむだな話だ。」といって、たとえ、ものこそいわないけれど、なんでもよく人間の感情はわかるものを、このおとなしい牛をひどいめにあわせたのであります。
ある、うす寒い日のこと、百姓は、話に、馬の市が四里ばかり離れた、小さな町で開かれたということを聞いたので、喜んで、小舎の中から、年とった牛を引き出して、若い牛と交換してくるために町へと出かけたのでした。
百姓は、自分たちといっしょに苦労をした、この年をとった牛に分かれるのを、格別悲しいとも感じなかったのであるが、牛は、さもこの家から離れてゆくのが悲しそうに見えて、なんとなく、歩く足つきも鈍かったのでありました。
昼過ぎごろ、百姓はその町に着きました。そして、すぐにその市の立っているところへ、牛を引いていきました。すると、そこには、自分の欲しいと思う若い馬や、強そうな牛が幾種類となくたくさんにつながれていました。方々から百姓たちが、ここへ押し寄せてきていました。中には、脊の高いりっぱな馬を買って、喜んで引いてゆく男もありました。彼は、うらやましそうに、その男の後ろ姿を見送ったのです。
自分は、馬にしようか、牛にしようかとまどいましたが、しまいには、この連れてきた年とった牛に、あまりたくさんの金を打たなくて交換できるなら、牛でも、馬でも、どちらでもいいと思ったのでした。
あちらにいったり、こちらにきたりして、自分の気にいった馬や、牛があると、その値段を百姓は聞いていました。そして、
「高いなあ、とても俺には買われねえ。」と、彼は、頭をかしげていったりしました。
「おまえさん、よくいままで、こんな年をとった牛を持っていなさったものだ。だれも、こんな牛に、いくらおまえさんが金をつけたって喜んで交換するものはあるめえ。」と、黄銅のきせるをくわえて、すぱすぱたばこをすいながら、さげすむようにいった博労もありました。
そんなときは、百姓は、振り向いて後ろに首垂れている、自分の牛をにくにくしげににらみました。
「そんなざまをしているから、俺まで、こうしてばかにされるでねえか。」と、百姓は怒っていいました。
また、彼は、ほかの場所へいって、一頭の若い牛を指さしながら、いくらお金を自分のつれてきた牛につけたら、換えてくれるかと聞いていました。
その博労は、もっと、前の男よりも冷淡でありました。
「おまえさん、ここにたくさん牛もいるけれど、こんなにおいぼれている牛はなかろうぜ。」と答えたぎりで、てんで取り合いませんでした。
しかたなく、百姓は、年とった牛を引きながら、あちらこちらと迷っていました。しまいには、もうどんな牛でも、馬でもいいから、この牛と交換したいものだ。自分の牛より、よくない牛や、馬は、一頭だって、ここにはいないだろうと思ったほど、自分の牛がつまらなく思われたのであります。
日が暮れかかると、いつのまにか、市場に集まっていた百姓たちの影は散ってしまいました。その人たちの中には、持ってきた金より、牛や、馬の値が高いので買わなくて帰ったものもあったが、たいていは、欲しいと思った牛や、馬を買って、引いていったのであります。
独り、この百姓だけは、まだ、まごまごしていました。そして、最後に、もう一人の博労に掛け合っていました。
「俺は、この若い馬が欲しいのだが、この牛に、いくら金を打ったら換えてくれるか?」と、百姓はいいました。
その博労は、百姓よりも年をとっていました。そして、おとなしそうな人でありました。しみじみと、百姓と、うしろに引かれてきた牛とをながめていましたが、
「いま換えたのでは、両方で損がゆく。金さえたくさんつけてもらえば、換えないこともないが、この冬、うんとまぐさを食わして休ませておやんなさい。そうすれば、まだ来年も働かされる。だいいち、これまで使って、この冬にかかって、知らねえ人の手に渡すのはかわいそうだ。」といいました。やむを得ず、百姓は、また牛を引いて我が家に帰らなければならなかったのです。
「ほんとうに、ばかばかしいことだ。」
百姓は、ぶつぶつ口の中でこごとをいいながら、牛を引いてゆきました。
朝のうちから曇った、寒い日であったが、晩方からかけて、雪がちらちらと降りだしました。百姓は、日は暮れかかるし、路は遠いのに、雪が降っては、歩けなくなってしまう心配から、気持ちがいらいらしていました。
「さあ早く歩け、この役たたずめが!」とどなって、牛のしりを綱の端で、ピシリピシリとなぐりました。牛はいっしょうけんめいに精を出して歩いているのですけれど、そう早くは歩けませんでした。雪はますます降ってきました。そして、道の上がもうわからなくなってしまい、一方には日がまったく暮れてしまったのであります。
「こんなばかなめを見るくらいなら、こんな日に出てくるのでなかった。」と、百姓は、気持ちが急ぐにつけて、罪もない牛をしかったり、綱で打ったりしたのであります。
この町から、自分の村へゆく道は、たびたび歩いた道であって、よくわかっているはずでありましたが、雪が降ると、まったく、あたりの景色は変わってしまいました。どこが、田やら、圃やら、見当がつかなくなりました。そして、暗くなると、もう一足も歩けなかったのです。
百姓は、こうなると、牛をしかる元気も出なくなりました。たとえ、いくら牛をしかってもなぐっても、どうすることもできなかったからであります。
「さ、困ってしまった。」といって、ぼんやり手綱を握ったまま、百姓は道の上にたたずんでいました。いまごろ、だれもこの道を通るものはありませんでした。
天気が悪くなると、帰る人たちは急いで、とっくに帰ってしまいました。また、朝のうちから天気の変わりそうなのを気遣って、出る人も見合わせていたので、日の暮れた原中では、一人の影も見えなかったのであります。
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