百
姓は
腹がすいてくるし、
体は
寒くなって、
目をいくら
大きく
開けても、だんだんあたりは
暗く、
見えなくなってくるばかりでした。
彼は、どうなるかと
思いました。
道を
迷って、
小川の
中にでも
落ち
込んだなら、
牛といっしょに
凍え
死んでしまわなければならぬと
思いました。
百
姓は、まったく
泣きたくなりました。ことに、
「ほんとうに、
今日こなければよかった。
来年の
春まで、この
牛を
飼っておくことに、
最初からきめてしまえばよかった。あの
年とった
博労のいったのはほんとうのことだ。いま、この
寒さに
向かって、
他人の
手に
渡すのはかわいそうだ。」
こう
思うと、百
姓は、
振り
向いて、
後ろから
黙ってついてくる
黒い
牛を
見て、かわいそうに
思いました。
牛の
脊中にも、
冷たい
白い
雪がかかっていました。
「
来年の
春までは
置いてやるぞ。だが、
今夜この
野原でふたりが
凍え
死にをしてしまえば、それまでだ。
俺は、もう、もう
一足も
歩けない。おまえは
道がわかっているのか? たびたびこの
道を
通ったこともあるから、もしおまえにわかったなら、どうか
俺を
乗せて、
家までつれていってくれないか?」
百
姓は、
牛に
頼みました。
彼は、
最後に
牛の
助けを
借りるよりほかに、どうすることもできなかったのであります。
牛は、百
姓を
乗せて、
暗い
道をはうように
雪の
降る
中を
歩いていきました。
夜が
更けてから、
牛は、
我が
家の
門口にきて
止まりました。百
姓は、はじめて
生きた
心地がして、
明るい
暖かな
家の
内に
入ることができたのでした。
百
姓は、その
晩、
牛にはいつもよりかたくさんにまぐさをやりました。
自分も
酒を
飲んで、
床の
中に
入って
眠りました。
明くる
日になると、もう、百
姓は、
昨夜の
苦しかったことなどは
忘れてしまいました。そして、これからもあることだが、ああして
道に
迷ったときは、なまなか
自分で
手綱を
引かずに、
牛や
馬の
脊にまたがって、つれてきてもらうのがなによりりこうなやり
方だと
思いました。
彼は、あのとき、
心で
牛に
誓ったことも、
忘れてしまいました。そして、どうかして、
早く
年若い
牛を
手に
入れたいと
思っていました。
ちょうどその
時分、
同じ
村に
住んでいる百
姓で、
牛をいい
値で
売ったという
話をききました。
町へどんどん
牛が
送られるので、
町へきている
博労が、いい
値で
手当たりしだいに
買っているという
話を
聞いたのであります。
彼は、さっそく、その百
姓のところへ
出かけていきました。
「おまえさんの
家の
牛は、いくらで
売れたか。」とききました。すると、その百
姓は、
「なんでも、
大きな
牛ほど
値になるようだから、おまえさんの
家の
牛は
年をとっているが、
体が
大きいからいい
値になるだろう。」といいました。
彼は、もし
自分の
牛が
売られていったら、どうなるだろうという
牛の
運命などは
考えませんでした。ただ、
思っているよりはいい
値になりさえすれば、いまのうちに
牛を
売ってしまって、
金にしておくほうがいいと
思いました。そして、
来年の
春になったら、
若い、いい
牛を
買えば
自分はもっとしあわせになると
思いました。
さっそく、
彼は、
町へ
牛を
引いていって
売ることにいたしました。
こうして百
姓は、ふたたびぬかるみの
道を
牛を
引いて、
町の
方へといったのです。おそらく、
今度ばかりは、ふたたび、
牛はこの
家に
帰ってくるとは
思われませんでした。
百
姓は、
道を
歩きながら、「あの
家の
牛でさえ、それほどに
売れたのだから、あの
牛よりはずっと
大きい
俺の
牛は、もっといい
値で
売れるだろう。」と
考えていました。
そのとき、
牛は、
何事も
知らぬふうに、ただ
黙って、百
姓の
後ろから、ついて
歩いていきました。
町へ
着きました。そして、百
姓は、
博労にあって、
自分の
牛を
売りました。ほんとうに、
彼が
思ったよりは、もっといい
値で
売れたのであります。百
姓は、
金を
受け
取ると、
長年苦労を一つにしてきた
牛が、さびしそうに
後に
残されているのを
見向きもせずに、さっさと
出ていってしまいました。
「
大もうけをしたぞ。」と、
彼は、こおどりをしました。
百
姓は、これが
牛と一
生のお
別れであることも
忘れてしまって、なにか
子供らに
土産を
買っていってやろうと
思いました。それで、
小間物屋に
入って、らっぱに、
笛にお
馬に、
太鼓を
買いました。
二人の
子供らに、二つずつ
分けてやろうと
思ったのであえいます。
この
日も、また
寒い
日でありました。百
姓は、たびたび
入った
居酒屋の
前を
通りかかると、つい
金を
持っているので、一
杯やろうという
気持ちになりました。
彼は、
居酒屋ののれんをくぐって、ベンチに
腰をかけました。そして、そこにきあわしている
人たちを
相手にしながら
酒を
飲みました。しまいには、
舌が
自由にまわらないほど、
酔ってしまいました。
戸の
外を
寒い
風が
吹いていました。いつのまにか
日は
暮れてしまったのであります。
「
今日は、
牛を
引いていないから
世話がない。
俺一人だから、のろのろ
歩く
必要はない。いくらでも
早く
歩いてみせる。三
里や四
里の
道は、
一走りに
走ってみせる。」と、
自分で
元気をつけては、
早く
帰らなければならぬことも
忘れて、
酒を
飲んでいました。
彼は、
燈火がついたのでびっくりしました。しかし
酔っているので、あくまでおちついて、すこしもあわてませんでした。
やっと、
彼は、その
居酒屋から
外に
出ました。ふらふらと
歩いて、
町を
出はずれてから、さみしい
田舎道の
方へと
歩いていきました。
牛を
売ってしまって、百
姓は、まったく
身軽でありました。しかし、いままでは、たとえ
彼が
道でないところをいこうとしても、
牛は
怪しんで、
立ち
止まったまま
歩きませんでした。いまは、
彼が
道を
迷っても、それを
教えてくれるものはなかったのであります。
分享到: