風雨の晩の小僧さん
小川未明
都会のあるくつ店へ、奉公にきている信吉は、まだ半年とたたないので、なにかにつけて田舎のことが思い出されるのです。
「もう雪が降ったろうな。家にいれば、いま時分炉辺にすわって、弟や妹たちとくりを焼いて食べるのだが。」
そう思うと、しきりに帰りたくなるのであります。けれど、出発のさいに、
「信吉や、体を大事にして、よく辛棒をするのだよ。」と、目に涙を浮かべていった母親の言葉を思い出し、また、同時に、
「どうせ一度は世の中へ出なければならぬのだ。どこへいっても家にいるようなわけにはいかぬ。奉公が辛いなどといって、帰ってきてはならぬぞ。」と、父親のいったことを思い出すと、いかに恋しくても帰られはしないという気がしました。
そうかと思うと、白髪の祖母の顔が、眼前に見えて、
「信や、いつでも帰ってこいよ。おまえには家があるのだから、ひどくしかられたり、辛棒ができなかったり、また病気にでもかかったなら、いつでもお暇をもらってくるがいい。そのときは、そのときで、田舎に奉公口のないではなし。」と、祖母は、いったのでした。
彼が、故郷のことを思い出すと、まずこのやさしい祖母の姿が浮かんだのです。
「あんないいおばあさんに、僕はよく悪口をいって、まことにすまなかった。」と、信吉は、後悔するのでした。
彼は、なにかいい口実が見つかったら、田舎へお暇をもらって帰りたいと思いました。奉公が辛いなどといったら、きっと厳しい父親のことだからしかるであろう。けれど、病気であったなら、母も、祖母も、かならず口をそろえて、「おおかわいそうに。」といって、帰った自分を慰めてくれるにちがいない。彼は、故郷を慕うのあまり、病気になればとさえ考えていたのでした。
このごろの寒さに、彼は、かぜをひいたのです。すると、そのことを田舎へ手紙で知らせてやりました。しかし、もとよりたいしたこともなかったので、すぐなおってしまいました。この店の主人は、やはり小僧から今の身代に仕上げた人だけあって、奉公人に対しても同情が深かったのでした。信吉が病気にかかると、さっそく医者に見せてくれました。そして、やがて、床から起きられるようになると、彼に向かって、
「早くなおってよかった。これからもあることだが、すこしぐらいのことを田舎へいってやってはならない。どのみち、親たちに心配をかけるのは、よくないことだからな。こうして、家を出たからには、何事も自分のことは、自分の力でするという決心が肝要なのだ。そして、親に心配をかけるのが、なによりも不孝であると知らなければならない。」と、主人は、諭すように、いったのでした。これを聞いたときに、信吉は、いままでの自分の意気地なしが、真に恥ずかしくなりました。
「ああ、こんなもののわかった主人を持ちながら、それを幸福と思わずに、いつまでも田舎を恋しがったり、ちょっとした病気でも知らしてやったりして、ほんとうに悪かった。」と、後悔しました。彼は、自分のまちがった行為に気づくと、すぐに心から反省する純な少年であったのです。
彼は、そろそろ仕事ができるようになったので、田舎の両親へあて、はがきを出しました。
「寒くなりましたが、ご両親さまには、お変わりもありませんか。私のかぜは、もうすっかりなおって、起きられるようになりましたからご安心ください。今後よく辛棒して働きます。大きくなって出世いたします。」と、それには書いてありました。
前後して親しかった友だちから、手紙がとどきました。
* * * * *
なつかしき信吉くん。
こちらは、毎日ちらちらと雪が降っている。二、三日前田圃にたくさんのはまねこが降りていた。おそらく海も荒れて、魚が捕れないからであろう。僕が石を投げると、一時に空へ舞い上がって、それはきれいであった。しかも、奇怪な風景という感じがした。空は、毎日灰色に曇っている。そして、寒い風が吹いている。関東の空は、これから青空つづきだと聞いたが、日本海岸と、太平洋岸とでは、それほど相違があるのだろうか。もっとも山一つ越せば、雪が降らないのに、こちらは、雪が四尺も五尺もあるのだから、まったく自然の現象ばかりは奇妙なものだ。
君は、その青空の下で、朗らかに働いていることだろう。僕たちは、夜となく、昼となく、あのゴーウ、ゴーウとほえるような、また遠方で、ダイナマイトで石を砕くような海鳴りを聞きながら、家事のてつだいをしたり、やがてくる春の日の用意に怠りがない。
なつかしき信吉くん。
君は、あの谷川のほとりのほおのきを知っているだろう。二人がやまばとの巣を捕りにいって、もう先にだれかに捕られてしまって失望したことがあったね。僕は、あのあたりの景色が好きだ。君が出発する前に、平常から親しくしていた、たつ子さんと三人で、あすこの石の上で、なつみかんや、ゆで卵を食べて、形ばかりの送別会をやった、そのとき、ちょうど、ほおのきの花が咲いていたのを覚えていないか。僕は、いつまでも、あのときのことを忘れずにいる。なぜなら、あの日は、独り君だけの送別会でなく、たつ子さんとの送別会にもなってしまったからだ。たつ子さんは、君が東京へ立って後まもなく、上州の製糸工場へいってしまったのだ。
この冬は、僕にとっていつになくさびしい。かるたを取って遊ぶにしても、またスキーをして遊ぶにしても、僕は、親しい二人の姿が見えないので、なんとなく独りぼっちのような気がする。しかし僕たちは、いつまでも子供ではおられないだろう。みんなは大きくなって、この世の中のためにつくし、親に孝行をしなければならぬのだ。
どうか、いつまでも、学校時代に培われた健全な精神の持ち主であってくれ、そして、たとえ遠くわかれていても、おたがいに手を握り合ってゆこうよ。こちらのさびしいのにひきかえて、東京は、いつもにぎやからしい。おひまがあったら、いろいろとおもしろいことを知らしてもらいたい。
* * * * *
信吉は、手紙を懐にしまって、両方の目を赤くしながら、しばたいていました。
日が暮れて、雨が降り出しました。信吉は、仕事場へ出て、平常のごとく働いていました。
「きょうの天気予報は当たった。あのいい天気が、急にこんなに変わったからな。」と、年上の職工は、仕事台の上へ前屈みになって、朋輩と話をしました。
このとき、主人は、ふいに思い出したように、
「このあいだいらしたお嬢さんの、オーバーシューズは今晩までのお約束でなかったかな。」と、仕事場を見まわして、いいました。
「そうです。私が、いま造っています。もうじきにできあがりますが。」と、茶色のセーターを着た職工が、電燈の下で手を働かせながら、答えました。
「お約束なのだ。できたらすぐにおとどけしてくれよ。」と、主人は、いっていました。
* * * * *
「お母さん、たいへんな雨ね。私、明日オーバーシューズがなくて困るわ。」
「きょうの晩までというお約束だったでしょう。だけど、この雨風では、できていてもとどけられないでしょう。」
「学校で、オーバーシューズがないと、おくつを脱いで、スリッパをはかないとしかられるのよ。」
「お天気になりしだい、私が催促にいってきますから、明日、もう一日だけ我慢をしてくださいね。」
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