五
私はアルツィバーセフの作にあった一節、彼のピラトがシモンに向って、「おれはあのユダヤの乞食哲学者に対しては不思議な感じがした。そしてその云うことに対して何物をか感ぜぬわけには行かなかった。然し彼でないお前は一体何んであるか?」と罵った言葉を思い出さずにはいられない。本当に真の愛と真の反抗と、真の憤りというものが、キリストだけにあって、またキリストと共に死んでしまったものかも分らない。皆誰でもがキリストの通った道を歩き得るものとは限らないから。無意味な形の上だけでは歩いていても、その精神をまで継ぎ得たと何んで云えよう。
偶々トルストイのように本当にその精神にぶつかることの出来た人に於て、初めてキリストの感情は地上に花を開くのだ。
六
然し現在のキリスト教なるものは、多くは世界の資本家の涙金から同盟を作り、大会を催す――換言すれば、経済的に資本主義者に寄食しているものだ。何処に彼のガラリヤの湖畔を彷徨したいわゆる乞食哲学者の面影があるか。それどころか英米の資本主義国家の手先となって、
稍もすれば物質によって他国の貧民に慈恵し、安っぽい愛と同情とを強いている。人生は愛以外にない。然しこの愛という言葉が如何に現在のキリスト教徒のために安っぽくされたか。反キリスト教同盟の宣言に「キリスト教は科学の信仰を阻止する」と云っているのも、
亦理由があるではないか。
七
北京大学の季大釧、季石曾などの運動が、上海に於ける陳独秀等の参加によって更に四方に及んだというのも、必ずしも或る人の云うが如くワシントン会議に於て米国が支那を助けなかった反動であるとばかりに考えるのは間違っている。この運動に参加したものは年少気鋭の学生であり新思想家であるのを見ても、奴隷化した宗教に対する反感と、いわゆる人道主義と愛というものに対する冒険と憤激とであると見るのが至当であろう。然も現下の支那に於ける思想上の混乱に際し、世界キリスト教青年大会というような麗々しい看板をかけて、一体彼等は何をなさんとするかということに対して、こういう反抗の気勢の揚ったのも偶然ではない。
今日の宣教師の中に幾人の人格者があるか。宗教家がほんとうに自己の生命を賭して真理のために正義のために争わなかったならば、革命は事実に於て宗教を否定するのである。
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