般若の面(1)
日期:2022-12-08 07:32 点击:322
般若の面
小川未明
町からはなれて、
街道の
片ほとりに一
軒の
鍛冶屋がありました。
朝は
早くから、
夜はおそくまで、
主人は、
仕事場にすわってはたらいていました。
前を
通る
顔なじみの
村人は、
声をかけていったものです。
長かった
夏も
去って、いつしか
秋になりました。
林の
木々は
色づいて、
日の
光は、だんだん
弱くなりました。そして
枯れかかった
葉が
思い
出したように、ほろほろと、こずえから
落ちて、
空に
舞ったのであります。
もうこのころになると、この
地方では、いつあらしとなり、あられが
降ってくるかしれません。百
姓は、せっせと
畠に
出て、
穫りいれを
急いでいました。
鍛冶屋の
主人は、
仕事の
間には、
手をやすめて、あちらの
畠や、こちらの
畠の
方をながめたのです。そして、
天気がよく、ほこほことして、あたたかそうに、
秋の
日が
平和に、
林の
上や、とび
色に
香った
地の
上を
照らしているときは、なんとなく、
自分の
気までひきたって、のびのびとしましたが、いつになく
曇って、うす
寒い
風が
吹くと、これからやってくる
冬のことなど
考えられて、ものうかったのです。
ある
日の
晩方から、
急にあらしがつのりはじめました。
落ち
葉は、ちょうど、ふいごを
鳴らすと
飛ぶ
火の
子のように、
空を
駆けて、ばらばらと
雨まじりの
風とともに、
空へ
吹きつけたのでした。
「いよいよ、このようすだと、二、三
日うちには
雪になりそうだ。」と、
主人は、
独り
言をしました。
女房は、
勝手もとで、
用をしていましたが、
彼は
暗い
奥の
方をわざわざ
向いて、
「
晩には、
雪が
降るかもしれないから、みんな
外に
出ているものは、
取りいれろや。」と、
大きな
声でいって、
注意をしたのでした。
彼は、やがて、
女房と
二人で、そこそこに
夕飯をすましました。ふたたび、
仕事場にもどって、
鉄槌で、コツコツと
赤く
焼けた
鉄を
金床の
上でたたいていました。
戸の
外では、あらしがすさんでいます。
彼は、
思わず、その
手をやめて、あらしの
音に
聞きとれたのでした。
このとき、
戸の
外で、だれか
呼びかける
声がしました。
だれだろう? この
暗い、あらしの
晩に、しかも、いまごろになって
声をかけるのは……と、
主人は
考えました。きっと、
村の
人が、なにか
用事があっておそくなり、そして、いま
帰るのだろう……と、こう
思って、
彼は、
立って
雨戸を
細めにあけて、のぞいたのです。
戸のすきまから、ランプの
光が
暗い
外へ
流れ
出ました。そこには、まったく
見知らない
男が
立っていた。
主人は、
目をみはりました。すると、その
男は、
「
私は、
旅のものですが、
知らぬ
道を
歩いて、
日が
暮れ、このあらしに
難儀をしています。
宿屋のあるところへ
出たいと
思いますが、
町へは、まだ
遠いでございましょうか?」と、たずねました。
主人は、その
知らぬ
男のようすをしみじみと
見ましたが、まだ、それは
若者でありました。どう
見ても、ほんとうに、
困っているように
見られたのです。
「それは、お
気の
毒なことです。まあ、すこしこちらへはいって
休んでから、おゆきなさい。」と、
人のよい
主人はいいました。
若者は、
喜んで、あらしに
吹かれてぬれた
体を、
家の
内へいれました。この
若者も、
性質は、
善良ですなおなところがあるとみえて、
二人は、やがて
打ち
解けて
話をしたのであります。
「
私は、
事業に
失敗をして、いまさら
故郷へは
帰れません。
私の
故郷は、ここから
遠うございます。どこかへ
出かせぎでもして、
身を
立てたいと
思って、あてもなく、やってきたのです。」と、
若者は、いいました。
鍛冶屋の
主人は、それは、あまりに
無謀なことだと
思ったが、すべて、
成功をするには、これほどの
冒険と
勇気が、なければならぬとも
考えられたのでした。
「それで、これから、どこへいきなさるつもりですか。」とたずねました。
「
私は、
北海道に
知人がありますので、そこへ
頼っていきたいと
思います。しかし、それにしては、すこし
旅費が
足りません。それで、
死んだ
父の
形見ですが、ここに
時計を
持っています。いい
時計で、
父も
大事にしていたのでした。これを
町へいったら、
手ばなして、
金にしたいと
思っています……。」と、いうようなことを、
若者は、
話しました。
主人は、なんとなく、この
知らぬ
旅人の
正直そうなところに、
同情を
寄せるようになりました。
「どれ、どんな
時計ですか?」といった。
若者は、
時計を
出して、
主人に
見せました。
小型の
銀側時計で、
銀のくさりがついて、それに
赤銅でつくられたかざりの
磁石が、
別にぶらさがっていたのでした。その
磁石の
裏は、
般若の
面になっています。
「なるほど、いい
音だ。これなら、
機械は、たしかだろう……。」
「まだ、その
時計にかぎって、
機械の
狂ったことを
知りません。」
「すこしくらいなら、
私が、ご
用立てをしましょう。そのかわり、いつでもこの
時計は、あなたにお
返しいたします。
町へいって、お
売りになるのなら、それくらいの
金で、
私が、おあずかりしてもいいですよ。」と、
主人は
答えました。
若者は、どんなに、うれしく
思ったかしれない。じつは、ここへくるまでに、
他国の
町で
見せたことがあった。しかし、あまり
安かったので
売る
気になれなかったのですが、
若者は、そのことも
打ち
明けました。すると
鍛冶屋の
主人は、
「その
値に、もうその
値の
半分も
出したら、どうですか?」といった。
若者はよろこんで、それなら
北海道へゆくのに
余るほどだといって、
主人に
時計を
買ってもらうことにしたのでした。
「これは、あなたのお
父さんの
形見だ。いつでも、ご
入用のときは、さし
上げた
金だけかえしてくだされば、
時計をおかえしいたします。」と、
主人は、
重ねていいました。
戸の
外には、あらしが、
叫んでいました。つるしたランプが、ぐらぐらとゆらぐほどでありました。
若者は、
厚く
礼をのべて、
教えられた
方角へ、
町を
指してゆくべく、ふたたび、あらしの
吹きすさむ
闇の
中へ
出て、
去ったのであります。その
後を、しばらく
主人は、だまって
見送っていました。
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