二
いつしか、二十
余年の
月日はたちました。
空の
色のよくすみわたった、
秋の
日の
午後であります。
一人の
旅人が、
町の
方を
見かえりながら、
街道を
歩いて、
村の
方へきかかりました。
田は、
黄金色に
色づいていました。
小川の
水は、さらさらとかがやいて、さびしそうな
歌をうたって
流れています。
木々の
葉は、
紅くまた
黄色にいろどられて、
遠近の
景色は
絵を
見るようでありました。
旅人は、
道のかたわらにあった、
木の
切り
株の
上に
腰をおろして
休みました。そのとき、ちょうど
町の
方から、
村の
方へゆく
乗合自動車が、
白いほこりをあげて
前を
通ったのです。
彼は、それを
見ると、
「そうだ、二十
年にもなるのだから、あの
時分と
変わったのも
無理がない。」と、ひとりでいったのです。
この
旅人は、ずっと
以前に、あらしの
晩、
鍛冶屋の
戸をたたいた
若者でありました。あの
後、
北海道へゆき、それから、カムチャツカあたりまで
出かせぎをして、いまは、
北海道でりっぱな
店を
持っているのでありました。
「あの
時計は、まだあるだろうかな。いろいろお
世話になった。あのご
恩は
忘れられん。しかし、あの
時計についている、
磁石の
般若の
面は、
子供の
時分から
父親の
胸にすがって、
見覚えのあるなつかしいものだ。いまも、あのかざりだけは
目に
残っている。よくお
礼をいって、
時計をかえしてもらいたいばかりにやってきたのだが……。」
こう
旅人は、
昔を
思い
出して、だれにいうとなくいいました。やがて、また
街道を
歩きながら、
右を
見、
左を
見て、あらしの
晩にいれてもらった
鍛冶屋をさがしたのであります。その
晩は
真っ
暗でした。そして、すさまじい
風の
音につれて、ランプのゆれるのを
見たのでした。それが、いまはこの
村もすっかり
電燈になっていました。
たしかに、ここと
思うところに、一
軒の
鍛冶屋がありました。
旅人は、その
前に
立って、しばらくためらい、
胸をおどらして
中へはいると、
思った
人は
見えなくて、まだ
若い
息子らしい
人が、
仕事をしていたのです。
彼は、
昔のことをこまごまとのべました。
「それで、ご
主人にお
目にかかって、お
礼を
申したいと
思って、
遠いところをやってきました。」と
告げたのであります。すると、
息子は、
目をまるくして
旅人をながめましたが、
「
父はもう三、四
年前に
亡くなりました。」と
答えた。これを
聞いた
旅人は、どんなに
驚いたでしょう。
北海道から
持ってきた、いろいろのみやげものをさし
出して、あらしの
夜の
思い
出などを
語り、そして、あの
時分、
買っていただいた
時計を、まだお
持ちなさるなら、
譲っていただきたいと
思ってきたことなどを
話したのであります。
「
母親は、
年をとって、それに、あいにくかぜをひいて、あちらに
臥っていますが。」と、
息子は
答えて、
奥へはいったが、やがて
時計を
持って
出てまいりました。
「この
時計でございますか?」
旅人は、なつかしそうにその
時計を
手に
取り
上げてながめました。
息子は、
「
私は、
子供の
時分、そのくさりについている
般若の
面をほしいといって、どれほど、
父にせがんだかしれません。しかし、
父は、これは
大事なのだといって、ほかのものは、なんでも、
私が
頼めばくれたのに、その
磁石だけは、どうしてもくれなかったが、なるほど、この
時計に、そんな
来歴があったのですか?」と、
昔を
思い
出していいました。
旅人は、この
話を
聞いているうちに、
自分が
子供の
時分、ちょうど、それと
同じように、
般若の
面をほしがったことを
思い
出しました。そして、この
小さな、一つの
磁石によって、
自分と
息子とが、
同じように
父親に
対して、なつかしい
記憶のあることをふしぎに
思い、なんということなく、この
人生に
通ずる一
種のあわれさを
感じたのでありました。
「いくら、
昔を
思い
出しても、なつかしいと
思う
父親は、もう
帰ってきません。せっかく
遠方からおいでなさいましたのですから、どうか、この
時計をお
持ちください。」と、
息子がいいました。
旅人は、その
言葉をしみじみ
悲しく
身に
感じました。
「
形見の
時計は、
手にもどっても、
自分の
父親とてもふたたびこの
世に
帰るものでない。
自分は、
愚かしくも
昔の
夢をとりかえそうと
思っていたのだ。そればかりか、
息子の
夢をも
破ってしまおうとした。この
時計などは、あのカムチャツカの
雪の
中にうもれてしまったものと
思っていればよかったのである……。」こう
考えると、もうその
時計を
取りかえす
気にはなれませんでした。それから、
二人はいろいろと
話をして、またたがいに
会う
日を
心に
期しながら、
別れたのであります。
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