僕は兄さんだ
小川未明
「お母さん、ここはどこ?」
お母さんは、弟の赤ちゃんに、お乳を飲ませて、新聞をごらんになっていましたが、義ちゃんが、そういったので、こちらをお向きになって、絵本をのぞきながら、
「さあ、どこでしょう。きれいな町ですね。義ちゃんも大きくなったら、こんなところへいってごらんなさい。」と、おっしゃいました。
「お母さん、この大きなお魚は、なんというの?」と、義ちゃんが、またききました。お母さんは、
「このお魚ですか。これは、たらといって、北の寒い海にすんでいるのですよ。」と、おっしゃいました。義ちゃんが、お父さんから買っていただいた、絵本をねっしんに見ていますと、もうお乳をたくさん飲んだ赤ちゃんは、こちらを見て、不思議そうな顔つきをして、きれいなご本を見ていましたが、かわいらしい手を出すと、ご本をしっかりとつかんでしまいました。
「お母さん、たいへん、僕の大事なご本を繁さんが、取ってしまった。」と、義ちゃんは、わめきました。
お母さんは、びっくりして、どうかして、小さな繁さんの手をご本から離させようとしましたが、なんといっても繁さんは、はなしませんでした。
「いい子だから、義ちゃん、すこしかしておいてくださいね。いまじきにはなすから。」と、お母さんは、おっしゃいました。
繁さんは、ご本をめずらしそうにながめていましたが、そのうちこれをお口に入れてなめようとしました。
「あ、お母さん、なめますよ。僕、もうきたなくしちゃったからいやだ。」といって、無理にそのご本をひったくりました。すると、今度、赤ちゃんは、大声を上げて泣き出してしまいました。お母さんは、お困りになりました。
「さあ、チンチンゴーゴーを見てきましょうね。」と、泣き叫ぶ、赤ちゃんを抱いて立ち上がられました。
「お母さん、どこへゆくの?」と、義ちゃんは、もはやご本どころではありません。それよりも、やはりお母さんといっしょに、電車を見にゆきたかったのです。
「繁さんが、きげんを悪くしたから、すこし外へつれていってくるのですよ。あなたは、お家に留守をして、ご本を見ていらっしゃい。」と、お母さんは、おっしゃいました。
義ちゃんは、自分がわるくないのに、なぜこんな結果になったのだろう。ご本を見ることよりは、お母さんとごいっしょに、外へいってみたほうが、どれほどおもしろいかしれぬと思いましたから、
「いやだ、僕もいっしょにゆくんだよ。」と、義ちゃんは、泣き出しそうになりました。
「困りましたね。じゃ、あんたもいっしょにいらっしゃい。ご本をちゃんとしまっておいでなさい。」と、お母さんは、おっしゃいました。
外へ出ると、冬の日は、暖かそうに枯れ草を照らしていました。ある家の横を通ると、前の圃にさくがしてあって、鶏がたくさん遊んでいました。
もう、お母さんに抱かれている、小さい弟の繁さんも、後からついてきた、義ちゃんも、うれしそうな顔つきをして、元気でありました。しばらく立ち止まって、鶏の遊んでいるようすを見ていますと、けんかをせずに、一つの餌を見つけても、たがいにつつき合って、仲よくそれを食べていました。
これを見た義ちゃんは、
「お母さん、おりこうの鶏さんですね。」と、感心して、いいました。
「それごらんなさい。赤ちゃんは、小さいのだから、気に入らぬことがあっても、しかってはいけませんよ。」と、お母さんは、おっしゃいました。なんにもわからない、小さい繁さんは、ただ、鶏の動くのを見てうれしそうに、きゃっきゃっと喜んでいました。
それから、町へ出て、電車を見ました。
「チンチン、ゴーゴー。」といって、赤ちゃんは、いつまでも帰ろうとはしませんでした。義ちゃんは、早くお家へ帰ってご本が見たくなりました。やがて、帰ってから、赤ちゃんが、義ちゃんの大事なおもちゃや、ご本をいじっても、いままでのように怒らずに、笑って見ていましたから、
「なんて、義ちゃんは、いいお兄さんでしょう。」と、お母さんは、おほめになりました。
「そうだ、僕は兄さんだもの。」と、義ちゃんは、はじめて強く心に思いました。