かくして、一
年とたたぬうちに、
彼はもう
大胆にりっぱに、
仕事ができるようになりました。
あるとき、
親方は、つくづくと
彼の
仕事ぶりを
見ていたが、
「おまえは、いつまでも、ペンキ
屋で
暮らそうとは
思わないだろうが、いったいなにになりたい
気なのだ。」と、
彼にききました。
「
僕は、
軍人になりたい。」と
達吉は、
答えたのです。いつか
准尉にあってから、
彼はそう
心の
中で
思ったのでした。
「
軍人にか、それはいい。おまえは、
脊は
低いが、なかなか
強情だから、いい
軍人になれるだろう。」と
親方は、
達吉の
意見に、
反対しませんでした。
勝ち
気の
達吉は、
同じ
年ごろの
少年が
学校へいくのを
見たりすると、うらやむかわりに、
夜も、
疲れた
体を
小さな
机の
前にもたせて、
航空雑誌を
読んだり、
地理や、
歴史を
復習したりしていました。そして、
昼になれば、
彼は、
普通の
子供たちなら、とうてい
上がれない、
目のまわりそうな
高い
建物の
頂に
立って、
「
学校で
勉強するよりか、こんなところで、
大人といっしょに
仕事をする
己のほうが、よほど
偉いんだぞ!」と、だれに
向かっていうとなく、
独りで
豪語しました。
それは、
彼が、
東京へきてから、
三たびめに
迎える
夏の
暑い
日のことでした。
緑の
多い
丘に
建っていた
教会堂の
前を
通りかかると、たくさん
人が
集まって、
塔の
上をながめていました。
「どうしたんですか。」
「あのたくさんなからすが、はとをねらっているのですよ。」
このごろ、どこのごみ
捨て
場をあさっても、あまり
食い
物が
見つからないので、
都会にすむ
餓えたからすたちは、
弱い
鳥をいじめてその
肉を
食べることを
考えついたのでした。それで、はとの
巣を
襲ったのです。いつ、どこから
飛んできたのか、二
羽のはとは、ここを
安全な
場所と
思って、
塔の
屋根に
巣を
造りました。そして、やがて
子供を
産んで、
育てていました。これを
知っていて、からすは、いま
計画的に、
群れをなしてやってきたのです。
早くも
悟った
親ばとは、
巣の
奥の
方へ二
羽の
子ばとを
隠して、
母ばとは、
胸で
子供をおおい、たぶんそれは
父ばとであったでしょう、いちばん
端にうずくまって、
体で
巣の
入り
口をふさぐようにして、
敵とにらみ
合っていました。
どうなることかと、
達吉もいっしょになって、
見ていました。すると、その
中の
獰猛な一
羽のからすが、ふいに
父ばとに
飛びかかって、とうとう
巣から
外へ
引きずり
出してしまいました。
待っていたとばかり、ほかのからすたちが、四
方から
寄ってたかって、
哀れなはとを
奪い
合い、
最後に
血にまみれたはとを
屋根の
上へたたきつけて、たがいにくちばしでちぎりはじめたが、あっという
間に、こうかつな一
羽がその
屍をさらってどこかへ
飛び
去ると、あわてて三
羽、四
羽、その
後を
追いかけていきました。
「なんて、ひどいことをしやがる。まだ、あの
巣の
中には、はとがいるから、それも
喰い
殺されるだろう。」
こういって、
見ている
人々が、
小石を
拾って、からすに
向かって
投げつけていた。しかし、
石はそこまでとどきませんでした。からすは、
石の
当たらないのを
知っていて、こちらのことは
気にも
止めずに、だんだん
巣の
方へ
近寄って、じっと
機会をねらっていました。
「わるいやつだな。」と、
達吉は、つくづく
思いました。
彼の
胸は、
憤りのために、どきんどきんと
鳴りだしました。
おそらく、
子供を
救うために、
自分を
犠牲にしようと
覚悟したのでしょう。ふいに、
母ばとが、
巣から
飛び
出した。からすらが、なんで、それを
見逃そう。
我先に
獲物にありつこうと
翔るはとに
向かって
突進しました。
母ばとは、
巧みに
方向を
変えて、
子供たちのいる
巣から、
敵を
遠方へ
遠方へと
誘ったのであります。
見ていると、
塔の
頂の
空を
高く二、三
回もぐるぐるまわってから、
下の
町の
方へ、できるだけの
速力で、
飛び
去っていきました。その
後を、カアカアと
叫びながら、
黒くなって、からすらが
執拗に
追いかけていきました。
けれど、まだ二
羽、三
羽、
意地悪いからすが
残っていて、どこへも
去らずに、
塔の
屋根に
止まって、
険しい
目で
巣をねらっていました。そこには、
親鳥を
失った、かわいそうな
子ばとが
怖ろしさのためにふるえているのでした。それと
知った、
達吉は、もうなんで
我慢ができましょう。
「よし、あの
不埒なからすめを
追いはらってくれよう。そして、
子供を
己の
懐に
抱いてきてやろう。」
rb>自分
を
犠牲にしようと
覚悟したのでしょう。ふいに、
母ばとが、
巣から
飛び
出した。からすらが、なんで、それを
見逃そう。
我先に
獲物にありつこうと
翔るはとに
向かって
突進しました。
母ばとは、
巧みに
方向を
変えて、
子供たちのいる
巣から、
敵を
遠方へ
遠方へと
誘ったのであります。
見ていると、
塔の
頂の
空を
高く二、三
回もぐるぐるまわってから、
下の
町の
方へ、できるだけの
速力で、
飛び
去っていきました。その
後を、カアカアと
叫びながら、
黒くなって、からすらが
執拗に
追いかけていきました。
けれど、まだ二
羽、三
羽、
意地悪いからすが
残っていて、どこへも
去らずに、
塔の
屋根に
止まって、
険しい
目で
巣をねらっていました。そこには、
親鳥を
失った、かわいそうな
子ばとが
怖ろしさのためにふるえているのでした。それと
知った、
達吉は、もうなんで
我慢ができましょう。
「よし、あの
不埒なからすめを
追いはらってくれよう。そして、
子供を
己の
懐に
抱いてきてやろう。」
達吉は、
人々がなんといってもかまわずに、
柵を
乗り
越えて、
寂然とした
教会堂の
敷地内へ
入り
込み、
窓わくを
足場として、さるのごとく、といを
伝って、
建物の
壁を
攀じり、
急角度に
傾斜している
屋根へはい
上がろうとしました。
「おうい、やめろ、あぶないぞう!」と、
下からわめく
声がきこえました。この
声は
彼の
耳に
入ったけれど、
「なに、くそ……。」と、
彼は、
返事をするかわりに、
歯ぎしりをしていた。
突然、
人間の
頭が、にょっきりと
屋根の
端から
伸び
上がると、さすがにからすは、これに
敵わぬと
思ったか、いちはやく、どこかへ
逃げていきました。
スレートの
面は、
太陽の
熱で
油を
流すごとく
焼けていて、
足の
裏へ、
針を
刺すように
痛さを
感じさせた。
「もう、
降りろう!」と、
見ていたものの
中から
注意するものがあった。
達吉は、ただ
登らなければならぬ
気がしていた。
顔を
上げると、まだ
巣のところまで三、四メートルありました。
同時に
下を
見ると、すぐ
近く
大きな
木が
目に
入り、四
方へ
張った
枝の
柔らかな
緑色は
毛氈を
拡げたように、
細かな
葉が、
微風にゆれていました。そして、こんな
際に、どうしてか、いつか
病院の
窓から
見た、あおぎりの
幻覚が
浮かんだ。
「
己は、どうすればいいのか?」さっと
感激の
失せた
刹那、
自分のすることがわからなくなり、
心がぐらつくと
足の
感覚までなくなって、
体がずるずると
下へ
滑りはじめた。
堅いスレートにはどこにもつめの
立てようがない!
彼は、
絶体絶命を
感じた。
数秒の
後に、
自分の
体が、
幾十
尺の
高いところから
地上に
落下して
粉砕するのだと
意識するや、
不思議にも、
気力が
出て
跳ね
上がった。
彼は、
屋根を
蹴ると、
眼下の
大木を
目がけて、それにしがみつこうとして
飛んだ。
軽業師にやれる
離れわざなら、なんで
人間生死の
瀬戸際にできぬというはずがありましょう。
達吉は、
天地が
真っ
闇だった。
大波が、
自分を
呑んだ。
体は
前後上下に
揺れていた。わずかに、
目を
開けると、しっかりと
自分はけやきの
木の
枝にしがみついていた。
「おお、
己は、
生きているぞ!
己は、
助かったのだ。お
父さんに
誓います。
僕は、
軍人になります。
神さまに
誓います。
僕は、かならず
飛行兵になります。」
とっさに、
希望が
頭にひらめいた。どこを
見てもただ
明るく、さんらんたる
光のうちにいるのを
発見した。どこかで、がやがや
人の
声が、きこえるような
気がしたけれど、
達吉は、ただ、
手足に
力を
入れて、どうしても
強く
生きなければならぬということだけしか
考えていなかった。
このときの、
彼の
目は、からすの
目よりも、さとくいきいきと
輝いて、いったん
心につかんだものを一
生逃すまいとしていました。