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星の子(2)_小川未明童話集_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3335
 

星の子

小川未明


あるところに、子供こどもをかわいがっている夫婦ふうふがありました。そのひとたちのらしは、なにひとつとして不足ふそくかんずるものはなかったのでありましたから、夫婦ふうふは、あさからばんまで、子供こどもいてはかわいがっていることができました。
子供こどもは、やっと二つになったばかりの無邪気むじゃきな、かわいらしいさかりでありましたので、二人ふたりは、子供こどもかおると、なにもかもわすれてしまって、ただかわいいというよりほかにおもうこともなかったのであります。
「どうしてこんなに無邪気むじゃきなのでしょうね。あかちゃんのには、なんでもめずらしくえるのでしょうね。ほんとうに、こんなときはかみさまもおなじなんですわね。」と、つまは、おっとかっていいました。
おっとほそくして、じっとやさしみのある子供こどもけて、つま言葉ことばにうなずくのでありました。二人ふたりは、おなじように、をかわいがりましたが、なかにもつまおんなであるだけに、いっそうかわいがったのであります。
しかし、このなかは、うつくしい、無邪気むじゃきなものが、つねに、かみあいされてわりなしにいるとばかりはまいりません。うつくしい、無邪気むじゃきなものでも、冷酷れいこく運命うんめいにもてあそばれることがたびたびあります。それはどうすることもできなかったのでありました。
こんなに、二人ふたり大事だいじにしていた子供こども病気びょうきにかかりました。二人ふたりは、どんなに心配しんぱいをしたでしょう。あらんかぎりのちからをつくしたにもかかわらず、ちいさな、なんのつみもない子供こどもは、幾日いくにちたかねつのためにくるしめられました。そして、そのあげく、とうとうはなびらが、むごたらしいかぜにもまれてるように、んでしまいました。
そのあとで、この二人ふたりのものは、どんなにかなしみ、なげいたでありましょう。自分じぶんたちのいのちちぢめても、どうか子供こどもたすけたいと、こころなかかみねんじたのも、いまは、なんのやくにもたちませんでした。
「このなかには、かみほとけもない。」と、二人ふたりはいって、かみをうらみました。
それからというものは、りっぱないえも、ひろ屋敷やしきも、ありあまるほどの財産ざいさんも、二人ふたりこころたすことはできませんでした。二人ふたりは、もし、それらのものをくした子供こどもえることができたら、あるいはそれらのものをすことをしむものではなかったかもしれません。どんな貴重きちょうのものも、子供こどもとは、とうてい比較ひかくになるものではないと、しみじみこのときだけはかんじたのであります。
二人ふたりは、かねしまずに、子供こどものために、うつくしい、ちいさな大理石だいりせきはかてました。そして、そのまわりにはなや、いろいろの草花くさばなえました。けれど、これだけでは、かぎりないおもいやりにたいして、その幾分いくぶんをもすことができなかったのです。
さむかぜく、くらに、おんなは、いまごろ、子供こどもはかしたまして、どんなにさびしがっているだろうかとおもうと、かずにはいられませんでした。
すると、おとこはいいました。
「なんで、あのこおったつめたいしたなどにいるものか。いまごろは、かみさまにつれられて天国てんごくへいってあそんでいる。」といいました。
「そうでしょうか?」
「そうとも、天国てんごくへいってあそんでいるよ。」と、おとここたえました。
「そんなに、とおい、たかいところへならいかれませんけれど、もしあるいていけるところなら、いくとおい、とおくにのどんなさびしい野原のはらでも、子供こどもがいることならさがしていきますのに……。」と、おんなはいって、きつづけました。
二人ふたりは、もう、ただ子供こどもんでいってからのしあわせを、いまでは、おもうよりほかにみちはなかったのであります。
そのとき、ちょうど、過去かこ現在げんざい未来みらい、なんでもいてわからないことはないといううらなしゃがありました。
おんなは、さっそくそのうらなしゃのところへいって、自分じぶんんだ子供こどものことをばてもらいました。うらなしゃは、んだ子供こども過去かこ現在げんざい未来みらいかたりました。
「あなたがた二人ふたりには、ながあいだ子供こどもがなかったが、信神しんじんによって、子供こどもまれました。けれど子供こどもは、まだこのなかにくるのにははやかった。はやいというのは、このなかがあまりによごれすぎているのです。それでもう一ほし世界せかいかえることになりました。しかし、みじかかったけれど、このなかてきたうえは、苦行くぎょうをしなければ、ふたたび天国てんごくかえることはできません。
いま、あなたのんだお子供こどもさんは、たかやまいただきに、ちいさいはなをつけたくさになっていられます。いまごろは、やまにはゆきっていますから、ゆきなかにうずもれていますが、そのうちにかみさまのおしによって、ほし世界せかいかえられます。こののち、あなたがたの信神しんじんによっては、もう一このなかてこられないものでもありません。」
うらなしゃは、このようにいいました。
これをいて、二人ふたりは、わがたいしてあれほどまでかわいがり、また大事だいじにしたけれど、まだりなかったか? まだ二人ふたり真心まごころは、つうじなかったかとなげきました。おんなは、よるそとって、つきのさえた、あおそらをながめました。そして、いまごろ、たかやまうえゆきひかしたに、くさとなってふるえている、わがいたましい運命うんめいおもいました。
いまから、すぐにも、彼女かのじょは、旅立たびだちをしてそのたかやまに、ゆきけてのぼってゆこうとおもいましたが、もとよりどこにくさがうずもれているかることができなかったのです。このうえはただ、もう一信神しんじんちからで、子供こども自分じぶんかえしてもらうよりほかに、どうすることもできないとりました。
彼女かのじょは、そのから毎日まいにちかみがんをかけて、「どうかんだ子供こどもが、もう一かえってきますように。」と、みやや、てらへいっていのったのであります。
こうするうちに、はるもだんだんにちかづいてきました。しかし、まだぐむにははやく、かぜさむかったのであります。ただくもに、ほんのりとやわらかなひかりがにじんで、なんとなく、なつかしいおだやかながつづくようになりました。小鳥ことりは、にわ木立こだちにきて、よいこえでさえずっていました。
がたちましたけれど、彼女かのじょ子供こどもくしたかなしみは、ますますするどく、むねしてたえられなくなって、彼女かのじょは、毎日まいにちのように子供こどもはかにおまいりをしました。そして、どうか、もう一まれわってかえってくるようにいのりました。
あるのこと、おんなは、不思議ふしぎゆめから、おどろいて目覚めざめました。
「おまえが、それほどまで子供こどもをかわいがるなら、もう一あの子供こどもをかえしてやろう。明日あすばんに、おまえはひとりで、まち西にしはしかわながれている、あのかわわたって、野原のはらなかにいってみれ、おまえの子供こどもが、なにもらずにあそんでいるから……。」
こういって、なれない、しろいひげのはえたおじいさんが、あちらのほうしたかとおもうと、がさめたのであります。
そのことを彼女かのじょは、あさになって、おっとげました。
「それは、おまえが平常へいぜいんだ子供こどものことばかりおもっているから、ゆめたのだ。そんなことがあるものでない。」と、おっとはいいました。
しかし、おんなは、どうしても、昨日きのうゆめわすれることができませんでした。きっとかみさまがわたしのおねがいをかなえてくだされたのだろう。とにかく自分じぶんよるになったら、野原のはらにいってみなければならぬと決心けっしんしました。

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11/18 13:30