二
こうして、
長い
月日が
過ぎました。ある
日、
男はいつものように
村から、
道を
歩いてきますと、いつになく、その
家の
窓の
雨戸が
堅くしまっていました。どうしたことだろうと
思いました。それから、
子細に
周囲をしらべてみますと、その
家は、
空き
家になっていました。
あのやさしい、しんせつな、
女の
家の
人たちは、どこへか
越していったと
思われました。
「どこへお
越しになったのだろう……。」と、
男は
思った。
それから、
近所の
人々に、それとなしに
聞いてみると、なんでも
遠方へ
越していかれたようです。
相手が、きたならしい
乞食であるので、だれもくわしく、しんせつにものをいって
教えてくれるものがなかったのです。
男は、ついに
知ることができませんでした。
哀れな
男は、またまったく
世の
中から、
見捨てられた、さびしい
人間となってしまいました。いつまで、
同じところに、さまよっていてもしかたがなかったから、
村から
村へ、
町から
町へあてもなく、さすらいの
旅をすることとなりました。その
間に、また、
長い
月日は、しぜんにたっていきました。いろいろの
土地を
歩きましたが、
乞食の
男は、ふたたび、あのしんせつな
女の
人にめぐりあうことはなかったのです。
男は、どうかして、もう一
度めぐりあいたいものだと
思いました。しんせつにしてもらった
恩を
忘れなかったのであります。
ある
年のこと、
男は、
街道を
歩いていました。
北の
方の
国であって、
夏のはじめというのに、
国境の
山々には、まだ、ところどころ、
白い
雪が
消えずに
残っていたのでした。けれど、
野原にはいろいろの
花が
咲いて、
澄んだ
空の
下で、
日の
光にかがやき、また、どこともなく
吹く
風に、さびしそうに
揺らいでいました。
男は、そんな
景色を
見ながら
歩いているうちに、
死んだ
女房のことや、
子供のことなどを
思ったのでした。また、
自分が
子供の
時分、
友だちと
竹馬に
乗って、
駆けっこをしたり、
往来の
上で
輪をまわして、
遊んだことなどを
記憶から
呼び
起こしたのであります。しかし、それは、
遠い
昔のことであり、また、
自分のうまれた
国は、たいへんにここからは
離れていたのでありました。
ちょうど、このとき、あちらの
方に
汽車の
笛の
音がしたのでした。やがて
平原を、こちらに
向かって
走ってくる
汽車の
小さな
影を
認めたのでした。
男は、しばらくなにもかも
忘れて、
子供のようになって、その
汽車を
見まもっていました。
静かな、うららかな
天気の
日であったのです。よく
子供の
時分に、
迷信ともつかず、ただ、
魔法を
使うのだといって、
口のうちで、おなじことを三べんくりかえしていうと、きっと
思ったとおりになると
信じたことがありましたが、
男は、ふと
子供の
時分に、やったことを
思い
出して、
「とまれ、とまれ、とまれ!」と、
汽車の
走ってくるのをながめながら、ぜんぜん
子供の
気持ちになって、
汽車に
向かっていったのでした。
普通に
考えてみても、そんなことをいったとて、
汽車がとまる
道理がありません。けれどこの
年とった
男は、いまにもとまりはしないかと
空想に
描きながら、
汽車を
見つめていました。
汽車は、だんだん
近づいてきました。そして、
見ていると、その
速力がしだいにゆるくなってきて、
彼が、あまりのふしぎに、
胸をとどろかしながら
見ていると、すぐ
前にきたときに、まったく
汽車はとまってしまったのでした。
男は、どうしたらいいだろうかとあわてて、すぐにも
逃げ
出そうかとしました。
汽車に
乗っている
人々は、みんな
窓から
顔を
出して、
何事が
起こったのだろうかと
線路の
上をながめていました。
運転手や、
車掌や、
汽車に
乗っている
係の
人々は、
汽車から
降りて、
機関車の
下あたりをのぞいていました。
機械の
力で
動いている
汽車が、
機械に
故障を
生じた
時分に
止まるのは、なんのふしぎもないことでした。ただ、
男が、そんなことを
口の
中でいったときに、
偶然、
機械に
故障を
生じたのがふしぎだったのであります。
男は、
頭を
上げて、
汽車の
窓からのぞいている
人々の
顔をながめていました。
「この
人たちは、どこまでいくのだろう……。」と、そんなことを
思ったのでした。
そのうちに、
男は、はっとして、びっくりしました。
金縁の
眼鏡をかけて、
色の
白い、
髪のちぢれた
女の
人が、やはり、
汽車の
窓から
顔を
出して、のぞいていたからです。その
人は、
数年前に、あの
家の
窓の
下を
通った
時分に、しんせつに
恵んでくれたその
人そっくりでありました。
けれど、ただちがっていることは、いま、
前に
見る
人は
若く、あのときの
人は、もっと
年をとっていたことです。
「あの
女の
人の
子供さんにしては、
大きいし、この
人は、あの
人の
妹さんであろう……。」と、
男は
思いました。
いつか、その
女の
人は、
自分を
見て、
遠くはなれている
父親のことを
思うといったが、これは、またなんという
奇妙なことであろうと、
男は
考えたのでした。そして、
前に
汽車の
窓から、
顔を
出している
若い
女の
人を、あの
女の
人の
妹さんであると
心に
決めてしまいました。
若い
女の
人は、
若いりっぱな
服装をした
紳士といっしょに
乗っていたのでした。
男は、
心から、その
人たちの
未来の
幸福を
祈ったのであります。
このとき、
汽車の
故障は
直って、
汽笛を
鳴らすと、ふたたびうごき
出しました。
男は、その
汽車のゆくえをさびしそうに
見送っていましたが、やがてとぼとぼと
平野を
一人であてなく
歩いていったのであります。
――一九二六・五――