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窓の下を通った男(2)_小川未明童話集_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3334
 

窓の下を通った男

小川未明

毎日まいにちのように、むらほうから、まちていく乞食こじきがありました。女房にょうぼうもなければ、また子供こどももない、まったくひとりぽっちの、人間にんげんのようにおもわれたのであります。
そのおとこは、もういいかげんにとしをとっていましたから、はたらこうとしてもはたらけず、どうにもすることができなかった、てのこととおもわれました。
まちへいけば、そこにはたくさんの人間にんげんんでいるから、なかには、自分じぶんうえ同情どうじょうせてくれるひともあろうとおもって、おとこは、こうして、毎日まいにちのように、田舎道いなかみちあるいてやってきたのです。
しかし、だれも、そのおとこおもっているように、あるいているのをとどまって、おとこ上話うえばなしいて、同情どうじょうせてくれるようなひとはありませんでした。なぜなら、みんなは自分じぶんたちのことかんがえているので、あたまなかがいっぱいだからでした。まれには、そのおとこのようすをて、どくおもって財布さいふからおかねして、ほんのこころざしばかりでもやっていくひとがないことはなかったけれど、それすら、によっては、まったくないこともありました。おとこは、空腹くうふくかかえながら、まちなかをさまよわなければなりませんでした。
うつくしい品物しなものを、いっぱいならべたみせまえや、おいしそうなにおいのする料理店りょうりてんまえとおったときに、おとこは、どんなになかあじけなくかんじたでしょう。かれはしかたなく、つかれたあしきずって、田舎道いなかみちあるいて、さびしい、自分じぶん小屋こやのある、むらほうかえっていくのでした。
ここにその途中とちゅうのところで、みちばたに一けんいえがありました。そうおおきないえではなかったが、さっぱりとして、多分たぶん役人やくにんかなにかのんでいるいえのようにおもわれました。このみちをいく人々ひとびとは、ちょうど、そのまどしたとおるようになっていたのであります。
あるのこと、おとこは、そのまどしたって、うえあおぎながら、あわれみをうたのでありました。どうせ、いえうちからは返答へんとうがないだろうとおもいました。なぜなら、まちでは、あのように、かお見合みあわせて、わせてたのんでも、らぬふうをしていき、またこうともしないものを、まどしたから、しかもそと往来おうらいうえたのんでも、なんのやくにもつものでないとかんがえられたからです。
「どうぞ、あわれなものですが、おねがいいたします。」と、おとこは、かさねていった。
ひっそりとして、ひとのいるけはいもしなかったのが、このとき、ふいにまど障子しょうじきました。かおしたのは、眼鏡めがねをかけたいろしろい、かみのちぢれたおんなひとでした。そのひとは、たいへんやさしそうなひとえました。
おとこは、あたまげて、
「どうか、なにかおめぐみください。」とねがいました。
そのおんなひとは、おとこおもったように、ほんとうにやさしい、いいひとでありました。じっと、おとこかおていましたが、
「そういうように、おなりなさるまでには、いろいろなことがおありでしたでしょうね。」といいました。
おとこは、はじめて、他人たにんからそういうように、やさしい言葉ことばいかけられたのでした。
「よくおきくださいましてありがとうぞんじます。つまにはわかれ、たよりとする子供こどもも、また病気びょうきでなくなり、わたしは、中風ちゅうふう気味きみで、半身はんしんがよくきかなくなりましたので、はたらくにもはたらかれず、たとえ番人ばんにんにさえもやとってくれるひとがありませんので、おはずかしいながら、こんな姿すがたになってしまったのです。」と、なみだながらにこたえました。おんなひとも、やはり、をうるませていました。
わたしちちが、ちょうどあなたのとしごろなんですよ。都合つごうのために、とおくはなれてくらしていますが、あつさ・さむさにつけて、ちちのことをおもします。だれでも、わかいうちにはたらいてきたものは、としをとってからは、らくにくらしていけるのがほんとうだとおもいます。それが、このなかでは、おもうようにならないんですのね。」と、おんなひとはいいました。
おとこは、だまって、うなだれておんなひとのいうことをいていました。
おんなひとは、いくらかぜにあわれなおとこあたえました。おとこは、しわだらけな、いろつやのよくないをのばしてそれをって、いただきました。そのぜには、たとえすこしではありましたけれど、ふかいなさけがこもっていましたので、おとこには、たいへんにありがたかったのです。
おとこは、いくたびもおれいべて、そこをりました。そのうしろ姿すがたおんなひとは、どくそうに見送みおくっていました。
そのおとこは、まちへいくたびに、このいえまどしたとおったのでした。けれど、たびたびあわれみをうてはわるがしました。よくよくこまったときででもなければ、ねがうまいと決心けっしんしたのであります。
しかし、そのながあいだには、あめもあれば、またかぜもありました。そして、一にちまちなかあるいても、すこしも、もらわないようなもあったのであります。
かれはしかたなく、このいえまどしたって、
「どうぞおねがいいたします。」と、うえあおいで、いわなければならなかった。
すると、障子しょうじいて、眼鏡めがねをかけた、いろしろい、かみのちぢれたおんなひとが、かおしました。そして、いやなかおもせずに、
「さあ、あげますよ。」といって、ぜにおとこわたしたのでした。
乞食こじきおとこは、それをいただいて、
「ありがとうぞんじます。」と、いくたびもれいをいってりました。
かぜく、さびしいむらほうおとこかえっていきました。たとえ、わずかばかりのおかねであっても、空腹くうふくをしのぐことができたのであります。
このひろなかに、だれ一人ひとり自分じぶんのためにおもってくれるもののないのに、こうしてこころから同情どうじょうしてもらうということは、たよりないおとこに、どれほど、あかるい気持きもちをあたえたかしれません。おとこは、毎日まいにち、このいえまどしたとおるときに、このいえ人々ひとびとうえ幸福こうふくあれかしといのらないことはなかったのです。
 

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