窓の内と外
小川未明
白と黒の、ぶちのかわいらしい子ねこが、洋服屋の飾り窓のうちに、いつもひなたぼっこをしていました。そのころ、政一は、まだ学校へ上がりたてであった。その店の前を通るたびに、おもちゃのねこがおいてあると思っていました。ところが、ある日、そのねこが起き上がって、脊のびをしたので、
「おや、生きているのだな。」と、びっくりしました。
ねこを好きな政一は、それから、この洋服屋の前を通ると、かならず店のうちをのぞくようになりましたが、太陽の当たらないときは、ねこの姿を飾り窓では見ませんでした。
月日がたって、いつしか政一は、上級生となりました。彼は、また釣りが大好きなので、祭日や、日曜日などには、よく釣りに出かけました。だれでも、子供の時分は、魚釣りが好きなものですが、政一ときては、日に、二、三回もいくようなこともめずらしくなかったのです。それは、川がそう遠いところでなかったからでありましょう。片手にブリキかんをぶらさげて、片手にはさおを持ち、いつも帽子を目深にかぶって、よくこの洋服屋の前を通ったのでありました。
そのころは、とっくに、ねこがいなかったから、彼は、ねこのことなど忘れてしまいました。ただガラス窓にうつる、彼の姿が、学校へ上がりたてのころから見れば、おどろくほど大きくなっていました。思い出したように、彼はまぶしい空を見上げたが、釣りのことよりほかには、なにも考えていませんでした。
このとき、店のうちで、眼鏡をかけて仕事をしていたおじいさんは、じっと少年の姿を見送っていました。
「あのお子さんも、大きくなったものだ。しかし今日は、風向きがおもしろくないから、釣りはどうだかな。」と、おじいさんはひとり言をしたのでした。
政一のお母さんは、よくこの店へきて、政一の洋服の修繕をお頼みになりました。ちょうど、その日の晩方のことです。いつものように、お母さんは、洋服屋へこられて、こんどは、政一が、新学期から着るための新しい服を、お頼みなさったのでした。
「いままでのは、もう小さくなって着られなくなりましたから、新しいのをこしらえてやろうと思います。」と、お母さんは、おっしゃいました。
これを聞くと、おじいさんは、にこにこしながら、
「きょう、坊ちゃんがさおを持って、前をお通りになりましたが、釣れましたか。しかし、よく私の直してあげました服を、こんなになるまで我慢して着てくださいました。感心なことです。何分戦後で、品物がないのですから。」と、おじいさんが、いいました。
「このまえ、こんどこれが切れたら、新しくなさいと、念を入れて修繕してくださったおしりのところが、こんなに破れましたし、それに、急に体が大きくなりましたので、新しくこしらえてやろうと思います。」と、お母さんも笑って、お答えになりました。
おじいさんは、鼻先から、眼鏡をすべり落ちそうにして、うなずきながら、
「坊ちゃんが、あんなに大きくおなりですもの、自分は年をとったはずだと、つくづく思いましたよ。」
おじいさんは、さらに、話をつづけました。
「私も、子供のときは、なにより釣りが大好きでした。それですから、いまでも、釣りざおを持っていく人を見ると、しぜんに癖で、空を見るのです。ああ、今日はだいじょうぶだ。今日は、風がおもしろくないと、つい、自分のことのように考えるのです。仕事をするようになって、もう何十年も川へいきません。けれど、こうしてすわっていても、昔を考えると、楽しかった日が、目に浮かんできます。」と、おじいさんは、政一のお母さんに向かって、話しました。
この日、政一は、おじいさんのいったように、わずかに小さなふなを二匹と、えびを三匹釣ったばかりでした。夕飯のとき、お母さんが、おじいさんの、今日の話をおきかせなされると、
「たまには、おじいさんも、釣りにいけばいいのに。」と、考えて、政一は、こういいました。
「それが、つぎつぎに、お仕事があっていけないのだそうです。おまえの、いま着ている服も、どれほどおじいさんのお世話になったかしれません。おじいさんだけは、直しものでも、けっしていやな顔をせずに、かえって、こんな時節だから、着られるだけ我慢なさいといって、喜んでしてくださるのですよ。」と、お母さんはいわれました。
政一は、お母さんの口から、こうはじめて聞くと、おじいさんが、自分の好きな楽しみも犠牲にして、他人のためにつくしているのを知りました。そればかりでなく、政一は、自分の着ている服も、幾人かの手によってつくられたのであって、この世の中のことは、なに一つ、ひとりの力だけで、できるもののないことを悟ったのであります。
彼は、毎日、だまって仕事をしている人々に、真に感謝の念がわいたのでありました。