港に着いた黒んぼ(1)_小川未明童話集_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29 点击:3334
一人の見なれない男が、姉の前に進み出ました。
「この町の大尽のお使いでまいったものです。ちょっと大尽がお目にかかってお話したいことがあるからいらっしてくださるように。」といいました。
姉は、これまでこんなことをいったものが、幾人もありましたから、またかと思いましたが、その大尽というのは、名の聞こえている大金持ちだけに、娘はすげなく断ることもできないという気がして、少なからず当惑いたしました。
「どんなご用があって、わたしにあいたいと申されるのですか?」と、姉は、その使いの男にたずねました。
「私にはわかりません。あなたがいらしてくださればわかることです。けっして、あなたのお身にとって悪いことでないことだけはたしかであります。」と、その男は答えました。
「わたしは、弟を置いて、どこへもいくことはできません。弟を連れていってもいいのでしょうか?」と、姉はたずねました。
「弟さんのことは、聞いてきませんでした。大尽は、なんでもあなた一人に、お目にかかってお話をしたいようです。けれどけっして手間を取らせません。あすこへ馬車を持ってきています。それに、日も、まだまったく暮れるには間がありますから……。」と、その男はいいました。
姉は、黙って、しばらく考えていましたが、なんと思ったか、
「そんなら、きっと一時間以内に、ここまで帰してくださいますか。」と、男に向かってたずねました。
「おそらく、そんなには時間を取らせますまい。どうか、せっかく使いにまいった私の顔をたてて、あの馬車に乗って、一刻も早く大尽の御殿へいらしてください。いまごろ大尽は、あなたの見えるのをお待ちでございます。」と、男はいいました。
あちらに、草の上にすわって、手に笛を持っておとなしく、弟は、姉のくるのをまっていました。
姉は、思案に沈んだ顔つきをして、着物のすそを夕風になぶらせながら弟のそばへ、はだしのまま近寄ってきました。そして、目は見えぬながら微笑んで、姉を迎えた、弟に向かって、
「姉さんは、ちょっと用事があっていってくるところがあるのよ。おまえは、どこへもいかずに、ここに待ってておくれ、すぐに姉さんは帰ってくるから。」と、やさしくいいました。
弟は、盲目の目を、姉の方に向けました。
「姉さんは、もう帰ってこないのではないの。僕は、なんだかそんなような気がするんだもの。」といいました。
「なぜ、そんな悲しいことをいうの。姉さんは、一時間とたたないうちに帰ってきてよ。」と、姉は、目に涙をためて答えました。
弟は、やっと姉のいうことがわかったみえて、黙ってうなずきました。
姉は、使いの男につれられて、いかめしい馬車に乗りました。馬車は、ひづめの音を砂地の上にたてて、日暮れ方の空の下をかなたに去りました。
弟は、そのひづめの音が遠く、かすかに、まったく聞こえなくなるまで、草の上にすわって、じっと耳を澄ましていました。
一時間はたち、二時間はたっても、ついに姉は帰ってきませんでした。いつしか、日はまったく暮れてしまって、砂地の上は、しっとりと湿り気を含み、夜の空の色は、藍を流したようにこくなって、星の光がきらきらと瞬きました。港の方は、ほんのりとして、人なつかしい明るみを空の色にたたえていたけれど、盲目の弟には、それを望むこともできませんでした。
ただ、おりおり、生温かな風が沖の方から、闇のうちを旅してくるたびに、姉の帰るのを待っている弟の顔に当たりました。弟は、もはやたえられなくなって、泣いていました。そして、姉は、どこへいったろう。もうこれぎり帰ってこなかったらどうしようと心細くなって、涙が流れて止まらなかったのであります。
いつも姉は、自分の吹く笛の音につれて、踊ったと思うと、弟は、もし自分の吹いた笛の音を聞きつけたら、きっと姉は、自分を思い出して帰ってきてくれるにちがいないと思いました。
弟は、熱心に笛を吹き鳴らしました。かつて、こんなに心を入れて、笛を吹いたことはなかったのであります。姉は、この笛の音をどこかで聞きつけるであろう。聞きつけたら、きっと自分を思い出して帰ってきてくれるにちがいない、と、弟は思いました。弟は、それで、熱心に笛を吹き鳴らしました。
ちょうど、ここに一羽の白鳥があって、北の海で自分の子供をなくして、心を傷めて、南の方へ帰る途中でありました。
白鳥は黙って、山を越え、森を越え、河を越えて、青い、青い海を遠く後にして、南の方をさして旅をしていました。白鳥は疲れると流れの辺に降り、翼を休めて、また旅に上りました。かわいい子供をなくして、白鳥は、歌う気にもなれなかったのです。ただ、黙って暗い夜を、星の下を駆けていました。
白鳥は、ふと、悲しい笛の音をききました。それは、普通の人の吹く笛の音色とは思われない。なんでも胸になやみのあるものが、はじめてこんな笛の音色を出し得ることを白鳥は知りました。白鳥は、子供をなくして、しみじみと悲しみを味わっていましたから、その笛の音色をくみとることができたのです。
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