三
あくる晩、女はいつものように東の障子に向って仕事をしていた。ほんのりと月の光りが射し込んで来る。森に吹く風の、かすかな音が聞える。小鳥が巣を求める夜
啼きの声がする。いつも女は、下を向いていてそれらのものには気付かなかった。今宵、始めて女は、手を休めて耳を傾けた。
葉と葉の
摺れる音、そこには、今まで、聞えなかった
柔しみがある。どうして、樹はこんな美妙の音を出すであろうか。月が、深い、深い、葉の繁みを分けて奥深く入り込む、そのまた後を追いかけて第二の風が入って行く。それらの風が、この清新な葉の
褥の中に追い
廻り、追い駆け、狂って、再び奥の繁みから、左に抜け右に抜け、ある者は、どっと森を突き貫けて、更に月の青白く照る野を
掠めて、どこかに行ってしまう。その風の音が自分に接吻を求める叫びのように聞える。
女は、月を見て空想に
耽った。青い月の光りは障子の破れから射して、棚に乗っている白い土器を
晒していた。誰がいつ、そこに土器を置いたか? ただ物を言わぬ土器が、青白く彩られて、黙っていた。
女は、慌しげに仕事に取り
縋る。風の音、森の
囁き、小鳥の巣を求める声、月は、次第に明るくなった。女は、遠くで、水の流れる音を聞きつけた。その流れは、湧き出る泉の音である。月下に白く銀を砕いて、緑の草を分けて、走っている水の音である。女は、未だ
曾つてかかる流れを、この森の中に見出したことがなかった。しばらくその水音に耳を傾けて、仕事をやめていた。心は、水音と共に連なり、流れに乗って暗い、森の下、赤い花、白い花の蔭をくぐって遂に森に出た。
遥々と夢を見る気持で、どことなく流れて行く、高い塔、赤い
煉瓦造りの家、光る海……それらを見ることが出来た。……
女は、座に
居堪らず立上って、障子を開けた。鎌のように冴えた月が、枯れた木の枝にかかっている。やがて、青葉を縫って、青い月光は地平線にかしいだ。
まだ、女は
平日の半分だも[#「半分だも」はママ]仕事をしていなかった。赤い爛れた目のようなランプは、月のなくなると共に再び暗い室を占領した。女は昨夜のように、東に向って、下を向いて仕事にとりかかった。
四辺は静かだ。暗い夜は、森の上に垂れ下がって、小鳥は夜の翼の下に隠れて眠ってしまったらしい。
「今晩は。」……女は、手を止めて頭を上げた。
ただ黒幕を張ったような室。金紙で作った花を貼り付けたように数えるばかりの星。森は黙って浮き出している。そこに恋しい人影がなかった。