夕暮の窓より
小川未明
光線の明るく射す室と、木影などが障子窓に落ちて暗い日蔭の室とがある。
また、さびしい、室の裡に物思いに沈んで、
一日をうか/\と、おもしろおかしく、何事をも深く心にとゞめ考えもせずに暮らしているものがある。また、悲しみに沈んでしみじみとはかない身の上を思いわずらうものがある。しかも、同じい夕暮の一時を、いろ/\の室の裡に、さま/″\の人が異った気持を抱いて、異った生活をしている。
賑かな、都会から汽車で二三時間も離れると、極めて淋しい、田舎に行くことが出来る。
私は、田舎にゆくたびに、こういう静かな、淋しい処に産れた人と彼の、繁華な明るい町に住む人といずれが幸福であろうかと考えさせられた。
静かな、淋しい生活であろう……とか或は賑かな、華美な生活であろう……とか言うのは、これは傍から見てたゞそういうように思うばかりであって、果して其人の心には、どう感じているか立ち入って見なければ分らない。同時にどちらが幸福であるか、また不幸福であるかということは分らないのである。
たゞ、あきらめ、惑わない人が幸福であろうと思う。……悲しい時に於ても……また喜ばしい時に於ても……のみならず、日常の生活を真に味い得る人のみに限って、人生は、始めて夢でない、空想でないと言い得る。たゞ、生活を考え、感じ、味い得る人に限って、生存の意義が明かにせられたのである。故に、たとえ悲しみに沈み、思いに悩む人も、真に其の悲しみというものを感じ、心に味い得た人は、やはり、其処に生きているだけの
人生の生活というものは、必ずしも時間的であると、空間的であるとを要しない。単に刹那に、よく人生の生活の意義が明かにせられると信ずる。
私は、時間といい、また空間という、仮定された思想のために多くの人々が、生活を誤謬の淵底に導きつゝあることを知った。此世に時間というものはない。此の世に空間と名づけられた形あるものもない。ただ、それが観念に過ぎぬと知った時に自分等の生活は、時間と空間の中に営まれているべきものとは思われない。
たゞ、人生の生活は、感じ、考え、味うのにある。真に感じ、真に考え、真に味い得た刹那にあっては死は決して怖るべき者でない。
真理は、主観の結晶である、あきらめ、惑わざる瞳の中の色に、閃めく寂しい光りである。――私は、無意味の時間と、労働とを
日は暮れた。夕暮の一時は、私に、いろ/\の室の裡にさま/″\の人が、異った気持を抱いて、異ったことを考えているのであろうことを思わせた。