あれほど、
気をつけるようにと、
日ごろいっているけれど、どんなことで、あやまちがないともかぎらない。
会社へ
電話をかけてみようか、
電話の
番号をよくきいておけばよかったと、お
母さんは、
気をもんでいられました。
そのうちにも、
時計の
針はこくこくとたっていったのです。いつも
帰る
時間より一
時間、二
時間、二
時間半と
過ぎてしまったのです。
「あの
子にかぎって、だまって、ほかへ
遊びにいくようなことはない。」
そう
思うと、お
母さんは、こうして、じっとしていることができませんでした。
暗い
道を、お
母さんは、
停車場の
方へ
向かって
歩いていました。おそらく、
途中で
息子に
出あうであろうと
思われたので、あちらから、
足音がすると、
立ち
止まって、その
人の
近づくのを
待っていました。
見ると、ちがっています。またすこしいくと、こちらへくるくつ
音がしました。
「あの
足音こそ、たしかに
達夫のようだ。」
お
母さんは、
闇をすかして、
見のがすまいとしました。ちょうど、
年ごろから、
脊の
高さまで、そっくり
同じかったので、
「
達夫じゃない?」と、お
母さんは、
声をかけました。しかし、ちがっていたとみえて、その
少年は、だまっていってしまいました。
道の
曲がり
角に、
肉屋があって、
燈火が
明るく
往来へさしています。お
母さんは、しばらくそこに
立っていました。あとから、あとから、
勤めから
帰るらしい
人影が、
前をすぎていきました。
「まだ、こうして、みなさんが、お
帰りなさるのだもの、そんなに
心配することはない。」お
母さんは、みずから、
気持ちを
休めようとしました。けれども、こうしてみなさんが
家へ
急いで
帰られるのに、いつも
早く
帰る
我が
子が、どこにどうしているだろうと
思うと、またしても
気をもまずにはいられなかったのであります。お
母さんは、とうとう、
駅の
前まできてしまいました。
ゴウ、ゴウ、と、ひびきをたて、
電車がホームへ
入ると、まもなく、どやどやと
階段を
降りて、
人々が
先を
争って、
改札口から
外へ
出てきました。
中には、
大人にまじって、
達夫ぐらいの
少年もありました。
片手に
弁当箱と
書物を
抱え、
片手にこうもりを
握っていました。お
母さんは、そのようすつきを
見ると、
我が
子の
姿を
思い
出して、なんとなくいじらしくなって、あつい
涙がしらずにわいてくるのです。
まだ、
自分の
子だけが、
帰ってきませんでした。お
母さんの
胸は、
早鐘を
打つように、どきどきとしました。そして、
改札口のところまできて、
階段を
見上げて、いまか、いまかと
待っていました。もう
勤めから
帰る
人は、たいてい
帰ったとみえて、その
姿は
絶えてしまいました。そして、
電車の
着くたびに
降りるものは、
活動を
見た
帰りのものか、
盛り
場で
酒を
飲んできて、
酔っぱらっているような
人たちでありました。その
人たちの
数もだんだん
少なくなって、お
母さんは、
悲しくなってきました。
「きょう、
電車に、なにか
故障でもなかったでしょうか。」と、たまらなくなって、お
母さんは
駅員にたずねました。
「さあ、べつになかったようですが。」と、
駅員は
簡単に
答えました。
やがて
時計が、十一
時半になろうとしたときです。ゴウ、ゴウといって
新たに
電車がつくと、まもなく
人々が、ばらばらと
階段へ
降りてきました。そのなかに、
肩をそびやかして、
胸を
張り、
元気な
歩きつきで、
階段を
下りるとまっすぐに
改札口へ
向かってきたのは、
達夫でありました。お
母さんは
見ると
走り
寄りました。
「
達夫、どうして、こんなにおそかったのだい。」
「おそくとも、
心配しなくていいといったのに。」
「でも、もう十一
時過ぎじゃないか。」
「お
母さん、
僕、
夜業をしてきたんだよ。」
「まあ、
夜まで
働いては、おまえの
体にさわるでしょう。」
母と
子は、
話しながら、とっくに
店を
閉めてしまって、
暗くなった、
町の
通りを
歩いていきました。
「お
母さんは、おまえ
一人が、
頼りなんだよ。おまえのからだは、
大事なんだからね。」
「だいじょうぶですよ、お
母さん。そう
心配するなら、
明日から
早く
帰ります。」
「ああ、どうか、そうしておくれ。」
お
母さんは、くらがりで、
息子に
気づかれないように、そっと
涙をふきました。