雪の上のおじいさん
小川未明
ある村に、人のよいおじいさんがありました。ある日のこと、おじいさんは、用事があって、町へ出かけました。もう、長い間、おじいさんは、町に出たことがありませんでした。しかし、どうしてもいかなければならない用事がありましたので、つえをついて、自分の家を出ました。
おじいさんは、幾つかの林のあいだを通り、また広々とした野原を過ぎました。小鳥が木のこずえに止まって鳴いていました。おじいさんは、おりおりつえをとめて休みました。もう、あたりの圃はさびしく枯れていました。そして、遠い、高い山々には、雪がきていました。おじいさんは早く町へいって、用事をすまして帰ろうと思いました。
村から、町までは、五里あまりも隔たっていました。その間は、さびしい道で、おじいさんは、あまり知っている人たちにも出あいませんでした。
やっと、おじいさんは、昼すこし過ぎたころ、その町に入りました。しばらくきてみなかった間に、町のようすもだいぶ変わっていました。おじいさんは、右を見、左をながめたりして、驚いていました。それもそのはず、おじいさんは、めったに村から出たことがなく、一日、村の中で働いていたからであります。
「私が、くわを持って、毎日、同じ圃を耕している間に、町はこんなに変わったのか、そして、この私までが、こんなに年をとってしまった。」と、おじいさんは、独りため息をもらしていたのです。
「私は、遊びに町へ出たのでない。早く用事をすまして、暗くならないうちに、村まで帰らなければならぬ。」と、おじいさんは思いました。
そこで自分のたずねる場所をさがしていますと、公園の入り口に出ました。
公園には、青々とした木がしげっていました。人々が忙しそうに、その前を通り抜けて、あちらの方へいってしまうものもあれば、また公園の中へ入ってくるもの、また、そこから出てゆくものなどが見えました。しかし、その人々は、みんな自分のことばかり考えて、だれも、その入り口のそばの木の下に立って、しくしくと泣いている子供のあることに気づきませんでした。またそれに気がついても、知らぬ顔をしてゆくものばかりでありました。
このおじいさんは、しんせつな、人情深いおじいさんで、村にいるときも、近所の子供らから慕われているほどでありましたから、すぐに、その子供の泣いているのが目につきました。
「なんで、あの子は泣いているのだろう。」と、おじいさんは思いました。けれど、おじいさんは、用事を急いでいました。そして、早く用をたして、遠い自分の村に帰らなければなりませんのでした。いまは、それどころでないと思ったのでしょう。その子供のことが気にかかりながら、そこを通り過ぎてしまいました。
しかし、いいおじいさんでありましたから、すぐに、その子供のことを忘れてしまうことができませんでした。いつまでも、子供の姿が目に残っていました。
「あの子は、なんで泣いていたのだろう。母親にでもまぐれたのか、それとも、友だちを見失ったのか。よくそばへいって、聞いてみればよかった。」と、おじいさんは、日ごろ、やさしい心にも似ず、情なく、そこを通り過ぎてしまったのを後悔いたしました。
「それは、そうと、私のたずねていくところがわからない。」と、おじいさんは、あちらこちらと、まごまごしていました。そして、おじいさんは、昔、いったことのある場所を忘れてしまって、幾人となくすれ違った人々に聞いていました。
「あのあたりで聞いてごらんなさい。」などといいのこして、さっさといってしまうものばかりでありました。
おじいさんは、うろうろしているうちに、またさびしいところへ出てしまいました。そこは、先刻その入り口の前を過ぎた、同じ公園の裏手になっていました。青々とした常磐木が、うす曇った空に、風に吹かれて、さやさやと葉ずれがしています。弱い日の光は、物悲しそうに、下の木や、建物や、その他のすべてのものの上を照らしていました。
「また、公園のところへ出てしまったか。」と、おじいさんは、もどかしそうにいいました。
すると、すぐ目先に、鉄のさくに寄りかかって、さっき見た六つばかりの男の子が、しくしく泣いていました。これを見ると、おじいさんはびっくりしてしまいました。
おじいさんは、なにもかも忘れてしまいました。そして、すぐに泣いている子供のそばに近寄りました。
「坊は、どうして泣いているのだ。」と、おじいさんは、子供の頭をなでながら聞きました。
「お家へ帰りたい。」と、子供は、ただいって泣いているばかりでした。
「坊やのお家はどこだか? 私がつれていってやるだ。」と、おじいさんは田舎言葉でいいました。
しかし、子供は、自分の家のある町の名をよく覚えていませんでした。それとも、悲しさが胸いっぱいで、問われてもすぐには、頭の中に思い浮かばなかったものか、
「お家へ帰りたい。」と、ただ、こういって泣いているばかりでありました。
おじいさんは、ほんとうに困ってしまいました。それにしても、さっきから、この子供はこの公園のあたりで泣いているのに、だれも、いままで、しんせつにたずねて、家へつれていってやろうというものもない。なんという町の人たちは、薄情なものばかりだろう。それほど、なにか忙しい仕事があるのかと、おじいさんは不思議に感じたのでした。
「お家へ帰りたい。」
子供は、こういって泣きつづけていました。
「ああ、もう泣かんでいい。私が、坊やをつれていってやる。」と、おじいさんは、子供の手を引いて、そこの鉄さくから離れました。
「坊や、困ったな。お家のある町がわからなくては。」と、おじいさんは子供をいたわりながら、小さな手を引いて歩いてきました。すると、あちらに、風船球売りがいて、糸の先に、赤いのや、紫のをつけて、いくつも空に飛ばしていました。
「どれ、坊やに、風船球をひとつ買ってやろう。」と、おじいさんはいいました。
子供は、見ると、ほしくて、ほしくてたまらない、紫のや、赤いのが、風に吹かれて浮かんでいましたので、泣くのをやめて、ぼんやりと風船球に見とれていました。
「赤いのがいいか、紫のがいいか。」と、おじいさんは聞いていました。
「赤いのがいいの。」と、子供は答えた。
泣いているのに、だれも、いままで、しんせつにたずねて、家へつれていってやろうというものもない。なんという町の人たちは、薄情なものばかりだろう。それほど、なにか忙しい仕事があるのかと、おじいさんは不思議に感じたのでした。
「お家へ帰りたい。」
子供は、こういって泣きつづけていました。
「ああ、もう泣かんでいい。私が、坊やをつれていってやる。」と、おじいさんは、子供の手を引いて、そこの鉄さくから離れました。
「坊や、困ったな。お家のある町がわからなくては。」と、おじいさんは子供をいたわりながら、小さな手を引いて歩いてきました。すると、あちらに、風船球売りがいて、糸の先に、赤いのや、紫のをつけて、いくつも空に飛ばしていました。
「どれ、坊やに、風船球をひとつ買ってやろう。」と、おじいさんはいいました。
子供は、見ると、ほしくて、ほしくてたまらない、紫のや、赤いのが、風に吹かれて浮かんでいましたので、泣くのをやめて、ぼんやりと風船球に見とれていました。
「赤いのがいいか、紫のがいいか。」と、おじいさんは聞いていました。
「赤いのがいいの。」と、子供は答えた。
「風船球屋さん、その赤いのをおくれ。」といって、おじいさんは、懐から大きな布で縫った財布を出して、赤いのを買ってくれました。
「飛ばさないように、しっかり持っていくのだ。」と、おじいさんはいいました。