毎日雨が降りつづくと、いつになったら、晴れるだろうと、もどかしく思うことがあります。そして、もうけっして、この雨はやまずに、いつまでもいつまでも降るにちがいないと、一人できめて、曇った空を見ながら、腹立たしく感じ、あの空へ向かって、大砲でも打ってみたらと空想することがあります。
「どうした天気だろうな。」と、人の顔を見さえすればうったえるのでした。
ところが、とつぜん、雲が切れて、青い空がのぞき、黄金色の矢のような、日の光がさすと、さっきまでのゆううつが、どこかあとかたもなく消えてしまって、心までが別人のごとく変わるのでした。
きれいにすみわたった空の下では、あの曇った日にいだいた、ゆううつな思いを、二度味わってみたいと思っても、どうなるものでもありません。しかし、こんなことは、どうだっていいのです。ところが、僕は、ふと空想に浮かんだ、ある重大な問題をどうかしたはずみに忘れてしまったのです。それは忘れたですまされない、自分の一生を左右するとまで考えたものだけに、どうしても、もう一度それを思い出さなくてはならなかったのでした。そして、思い出すまで、僕は、毎日ゆううつな日を送りました。
あるときは、机の前に立ったり、すわったりしました。家の内を歩いてみました。どうかして、それを思い出そうとこころみました。しかし、雲をつかむようで、考えたことが、なんであったか、まったく見当がつきません。だが、最初それを考えた糸口となったものが、あったにちがいない。それは、なんであったか、僕は昨日から、今日へかけて、散歩した場所を目に浮かべたり、読んだ書物について、吟味したりしたのでした。けれど、やっぱり雲をつかむようだったのです。
あるとき、友だちが、僕と話したときに、いつもノートを持つ必要があるといいました。それは、歩いているときでも、また床の中にあるときでも、いい考えが浮かんだり、なにか気づいたことがあるときは、それを書きとめておかぬと忘れるというのです。だが、僕は友だちに向かって、そんなに、じき忘れてしまうような考えなら、けっきょくたいしたものでないだろう。ほんとに大切な思いつきなら、けっして、忘れることはないはずだといったのでした。
ところが、こんど、はじめて、かげのごとく、心の上をかすめて通る真理があり、たくみにそれをとらえれば、その真理こそ、人生にとって重大なねうちのあるものであるが、そのまま忘れてしまえば、永久に去ってしまうものなのを知りました。
それを僕が、ふたたび思い出したのも、また偶然だったのです。
ある日の晩方、友だちが、遊びにきて、
「君は、チフスの予防注射をしたかい。」と、聞きました。ちょうど、そのころチフスが発生したと新聞に書いてありました。
「去年、チフスと天然痘の予防注射をしたよ。」と、僕は、答えたのです。すると、友だちは、
「人間のからだへ、いろいろ病気の予防注射を打つが、それまでに、牛や、モルモットなどへ、幾たびも試験するんだってね。そんな試験台にされた、モルモットや、牛のことを考えると、かわいそうになるのだよ。」といって、真剣に考えていました。
「しかし、とうとい犠牲じゃないか。」と、僕は、かんたんに答えたものの、なにも知らない、おとなしい動物が、高度の発熱をしたり、からだの自由を失って、苦しんだりするのかと思うと、たとえ真理を発見するためとはいいながら、ほかには、健康で、自由に、生活する同類があるのを、僕も、やはりかわいそうに思ったのでした。
「それは、しかたのないことかもしれないが、人間はそれらの犠牲となったものにたいして、感謝しているだろうか。」と、友だちは、さながらいきどおるごとくいいました。
こう、友だちがいうのを聞いたとき、僕は、おぼえず、
「あっ、思い出した!」と、心で叫んだのです。
いつの晩だったか、床の中で考えながら、重大なことに思って、目をさまして起きたときは、なんであったか忘れてしまって、それから、なんとなく、大きな落とし物をしたように、ゆううつだったのが、友だちの話から、思い出したのでした。
「もし自分が、あの佐倉宗吾だったら。」と、空想したことでした。あの悲惨きわまる運命にあわなければならぬと想像したのです。
いつの世にも、正しく生きようとすれば、ひとり佐倉宗吾とかぎらないから。
やがて、友だちは帰りました。
僕は、祖父が、ひとりへやの内で、たいくつそうにしていられるので、そばへいって、
「おじいさん、どうして、世の中には、まちがったことが多いでしょうね。」と、たずねました。
おじいさんは、いつものごとくゆったりとした調子で、
「まちがっているって、どんなことかな。」と、おっしゃいました。
「そうでしょう。正しいことをしながら苦しめられ、悪いことをしても、楽な暮らしをしている人があるのは、どうしたわけですか。」
「なに、正しいものは、いつかみとめられるし、正しくないものは、しまいに罰せられるのじゃ。」と、おじいさんは、いわれました。
「おじいさん、そんなら、運命というものは、どんなものですか。」と、僕が聞きました。
「そう、運命とは、人間の力以上のものとでもいうのかな。」
「あまり、この世の中には、運命ということが、多すぎますね。」
「考えれば、そうもいえるのう。」
おじいさんは、机の上のすずりを手にとってながめていられました。
「運命なら、何事もあきらめるよりしかたがないのですか。」と、僕が、聞いた。
「まあ、あきらめるよりしかたはあるまい。だがお坊さんでもないかぎり、なかなかそうさとれぬものじゃ。だから、その悲しみを忘れるため、趣味に遊ぶということがある。歌を作るとか、絵をかくとか、字を習うとか、また碁や、将棋をするとか。わしなどは、一ぱいやり、畑へ出て、花造りをするのも、じつは、そのためなのじゃ。」と、おじいさんは、おっしゃいました。
けれど、僕には、そのお話が、なんだかなまぬるいような気がして、ぴんと頭へこなかったのでした。
おじいさんも、僕のようすで、そうさとられたとみえて、
「若いものには、わしの話はよくわかるまい。もう、おまえは、これから、叔父さんに、なんでもわからないことを、聞くがいいぞ。わしは、昔もので、いつでも、できるのは将棋相手ぐらいのものじゃ。」といって、おじいさんは、やさしい目で、僕を見ながら、おいいになりました。
眼鏡をかけて、いつも気むずかしい顔つきをしている叔父さんは、これまで、僕にたいして、何事にも、あまり注意をしてくれなかったものです。よくその意味はわからぬが、僕の存在を無視するということでないだろうか。ところが、僕がたずねていって、伝記で知った佐倉宗吾の歩いた道を、もし自分が同じ境遇に置かれたら、やはりその道を歩いたかもしれぬ。そうすれば、同じような悲惨なめにあったであろう。正しく生きることは、どうして、このように不安なのであろうかと、正直にいうと、はじめて、叔父さんは、正面から、じっと僕の顔を見て、真剣な態度を示したのでした。
「君のいうことは、よくわかるよ。しかし、君ばかりでない。だれだって、それを考えると、不安になるのがほんとうだろう。」と、叔父さんは、いわれました。
「どうしてですか。正しいことを主張して、それがいけないのは。」
「正しいことも、正しくないと、いいはる人たちがあり、そういうもののほうが、いつの世の中でも勢力を持つからだ。」
「ふしぎだなあ。」と、僕が、いいました。
「ふしぎはないさ。正直な人なら、なにが正しいか、正しくないかがわかる。たとえわかっても、世の中のため、あくまでいいはる、勇気のある人が少ないのだ。昔から、正義のために戦った人々は、その少ない中の人であって、多くの人たちから、迫害されたのだ。君が空想をして、不安になるのも無理はない。」といって、叔父さんの顔は、いつもの気むずかしい顔となりました。
「そうすると、悪い人がはびこるのは、正直でも、勇気のある人が、少ないからなんですね。」
「そのとおり、たとえば、横暴の殿さまがあっても、まわりのものは、にらまれるのをおそれて反対しない。そればかりか、気が弱いところから、いっしょになって、善人をいじめるということになるのだ。昔とかぎらず、それが、いままでの世の中のありさまだった。」
「叔父さん、どうすればいいとお考えですか。」と、僕は、急に胸があつくなって、叫んだのでした。
叔父さんは、しばらく、だまって、考えておられた。むずかしいことをいっても子供にわからないと思われたので、なにか適当な答えをさがし出そうとされるふうにもとられるのです。
「いま君は、佐倉宗吾といったから、それでいい。ああいう正しい人が、ただ一人だったから、あんな最後になったが、でも、一人の力が、どんなに大きかったかわかるだろう。もしあのような人が、十人、二十人とあったらどうか、そして、百人、二百人とあったら、もはやいかなる悪い、また暴力をもつやからにたいしても恐るるに足らぬと考えないかね。これを見ても、一致協力する以外に、世の中を明るくする道はないのだよ。」と、叔父さんは、いわれた。
こう聞いたとき、僕の頭の中へ一すじの金色の明るい光線が、天からさしこんだような気がしました。
「いままで、運命といって、あきらめたことも、協同の努力で、征服することができるんですね。」
「そうだ、真理に奉仕する、野口英世のような人が出れば、これまで発見の困難とされた病菌とたたかって、人間を死の恐怖から、解放するであろうし、そういう科学者が幾人も出れば、どれほど、世界を明るくし、人類を幸福にみちびくかしれない。」
こう、叔父さんは、おっしゃったのでした。なんで僕はこの言葉に深く感激せずにいられましょう。
「よくわかりました。」と、頭を下げて、立ちかけると叔父さんが、
「君は、将来なにになるつもりか。」と、聞かれました。僕は、そくざに、
「社会改革家になります。」と、答えた。
「えっ?」と、叔父さんは、聞き返された。
僕は自分でも、すこし感情を露骨にあらわしすぎたと気づいたので、
「科学者になります。」といった。
「また、遊びにおいで。」と、叔父さんは、やさしくいわれたのでした。