一、竹青荘の住人たち
走ることが、こんな形で役立つとは思ってもいなかった。
ゴムの靴底が硬いアスファルトを弾く。その感触を味わいながら、蔵くら原はら走かけ
るは声もなく笑った。
足先から伝わる衝撃を、全身の筋肉がしなやかに受け流す。耳もとで風が鳴っている。
皮膚のすぐ下が熱い。なにも考えなくても、走の心臓は血液を巡らせ、肺は乱れなく酸素
を取りこむ。体はどんどん軽くなっていく。どこまでだって走っていける。
だが、どこまで? なんのために?
そこで走はようやく、いま自分が走っている原因に思い当たり、少し速度をゆるめた。
耳を澄ませて、背後の気配を探ってみる。怒声も足音ももう聞こえない。右手にはがさが
さと音を立てる菓子パンの袋がある。証拠隠滅とばかりに、走は袋の口を開け、走りなが
らパンをむさぼった。食べ終わったあとの袋をどうするかしばらく悩み、着ていたパー
カーのポケットにつっこむ。
空き袋を持っていたら、それを盗んだことのなによりの証拠になってしまう。それで
も、ゴミを道ばたに捨てることはできなかった。おかしなものだな、と走は思う。
いまとなっては、だれがなにを言うわけでもないのに、走は毎日トレーニングを欠かさ
ない。身についた習性だからだ。ゴミを道に捨てることも、どうしてもできない。いけな
いことだと、幼いころから言われてきたからだ。
走は自分でも納得できた場合には、だれかに教えられたことをとことん守った。自分の
なかで取り決めたことについては、だれよりも厳しく己れを律した。
菓子パンを食べたことで血糖値が上がったのか、走の脚はまた規則正しく地面を蹴りは
じめた。鼓動を感じながら呼吸を意識する。まぶたは半分閉じたようになって、自分の足
もとやや前方を見据える。繰りだされる爪先と、黒いアスファルトのうえに描かれた一筋
の白線だけを見る。
細い線をたどって、走は走る。
ゴミは道に捨てないくせに、パンを盗んでも罪悪感が生じない。空腹でひりつく胃をな
だめられたことに、満足を覚えるだけだ。
動物みたいだな、俺。走はそう思う。速く長く走るために、毎日トレーニングをして、
正確で強きよう靭じんなフォームを身につけた。腹が減ってどうしようもないから、コン
ビニエンスストアでパンを盗んだ。これでは獣と変わらない。決まったルートで縄張りを
巡回し、必要に応じて獲物に襲いかかる獣だ。
走の世界は単純で脆もろかった。走る。走るためのエネルギーを摂取する。ほとんどそ
れだけで、あとは言葉にならず、形にならないものが、ただもやもやとたゆたっているば
かりだ。しかし時折、もやもやとしたもののなかから、だれかがなにかを叫ぶ声が聞こえ
る。
快調に夜の道を走りながら、走はこの一年以上、何度も何度も脳裏に蘇ってくる映像を
じっと見つめていた。視界が真っ赤に染まるほどの激情。思いきり振りかぶって止まらな
かった拳こぶし。
もしかして、これが後悔というものかもしれない、と走は思った。俺のなかから聞こえ
てくるこの叫びは、俺が自分自身をなじっている声なんだ。
たまらなくなって、走は周囲に視線をさまよわせた。道に覆いかぶさるように立つ木々
は、細い枝を空に張り巡らしている。そろそろ芽吹きのときを迎えていたが、柔らかな緑
はまだどこにも見つけられない。枝の先に、またたく星がひとつ引っかかっていた。菓子
パンの空き袋が、ポケットのなかで枯れ葉を踏みしめるような音を立てる。
走はふと自分以外のものの気配を感じ、背筋を緊張させた。
追ってくる。たしかにだれかが追ってきている。錆びた金属の軋きしむ音が、背後に迫
りつつある。たとえ耳を塞いでいたとしても、この感覚は皮膚を通して伝わるはずだ。大
会で何度も味わった。地面を揺らす自分以外の生き物のリズム。呼吸音。風のにおいが変
わる瞬間。
ひさしく覚えなかった高揚が、走の心と体を震わせた。
だがここは、永遠の楕円を描く競技場のトラックではない。走はふいに身を翻ひるがえ
し、抜け道に入るために、小学校のある角を曲がった。走りに加速がついていく。捕まる
ものか。絶対に振り切ってみせる。
このあたりの道は入り組んでいて、私道なのか公道なのかわからないぐらいにどれも狭
い。そのぶん、あちこちに派生する行き止まりの路地がある。追いつめられないよう、走
は巧みに進路を選んだ。闇に塗りつぶされた小学校の窓の下を駆けぬける。この春から通
う予定の、私大のキャンパスを横目に見ながら疾走する。
少し大きな通りに行き当たった。右折して環状八号線方面に向かおうかと一瞬迷ってか
ら、そのまま直進して住宅街を行くことに決めた。
信号に足止めされることなく、通りを渡る。静かな住宅街に、走の足音が響く。だが追
跡者もこのあたりの地理を熟知しているらしく、どんどん気配は濃くなってくる。
走は自分が、走っているのではなく逃げているのだということに改めて気づいた。悔し
さが喉までこみあげる。俺はいつだって逃げている。なおさらに、脚を止めたくなくなっ
た。ここで止まったら、逃げていることを認めてしまうような気がした。
ほの白い小さな明かりが、走の足もとを照らした。小刻みに左右に振れる光の源は、い
まやぴったりと走の背後につけている。
自転車に乗ってるのか。ようやくそのことに気がついて、走は自分でもあきれてしまっ
た。軋む金属音をたしかに耳にしていたのに、追跡者が自転車に乗っているという可能性
は、まったく考えていなかった。自力でこの距離を走って、走の速度についてこられるも
のなど、そうそういないと経験が知っていたはずなのに。
走はいつのまにか、自分のなかの曖昧で恐ろしいものに追いかけられているような気分
になっていたのだ。だから必死で走っていた。
急に馬鹿らしくなり、走はちらりと振り返った。
若い男が、カゴのついたママチャリを漕いでいる。暗くて表情はよく見えない。あのコ
ンビニの店員ではないようだ。エプロンをつけていないばかりか、ドテラのようなものを
着て、ペダルを回転させる足には健康サンダルを履いている。
なんなんだ、いったい。
様子をうかがうために、走は速度を落とした。自転車は古い水車みたいな音を立てなが
ら、ごく自然に走に併走しはじめる。
走は横目で男を盗み見た。さっぱりとした顔立ちのその男は、湯上がりらしく髪が濡れ
ている。自転車のカゴには、洗面器がなぜか二つ入っていた。男も、たびたび走のほうを
見る。特に、走っている脚のあたりばかり見る。まさか変質者じゃないだろうなと、なん
だか気味が悪くなった。
自転車に乗ったその男は、少し距離を取り、黙って走の横についていた。走も相手の出
かたをはかりながら、ペースを乱さずに走りつづける。コンビニの店員に頼まれて自分を
追ってきたのか、それともまったく無関係なただの通行人なのか。走のなかで不安と緊張
と苛立ちが頂点に達しようとしたそのとき、穏やかな声が遠い潮騒みたいに耳に届いた。
「走るの好きか?」
走は驚いて足を止めた。目の前の道が忽こつ然ぜんと消え、うろたえて断崖の縁にたた
ずむ人間のように。