体育館の脇だ。コンクリートの外階段の陰に隠れるようにして、風雨をしのいでいた。
走が郷里から持ってきた荷物は、スポーツバッグひとつにすべて収められる量だった。必
要なものがあれば、あとで家から送ってもらえばいいと思った。走は住む部屋を決めもせ
ず、ふらりと自分の家を出て、東京に来たのだ。着いたその日の夜から雀荘に行き、すっ
からかんになった。
それでも、不安や恐れは感じなかった。知りあいのいない場所で、一人で過ごすのは苦
ではない。むしろ解放感を覚えたほどだ。だがたしかに、入学式までには住すみ処かを決
めたいところだったし、ジョギングのついでにコンビニで万引きするような暮らしにはう
んざりだった。
おとなしく立ちあがった走を見て、清瀬は満足そうにうなずいた。自転車にまたがるこ
とはせず、絡まり気味のチェーンの音も高く、ハンドルを引いて歩いていく。清瀬の羽織
るほつれたドテラを、街灯が白々と照らした。
おかしなことに、清瀬はあれほど走の走りに注目していたようだったのに、走に「陸上
経験者か」などとは聞いてこなかった。もう万引きするなよ、とも言いはしなかった。走
は思いきって、先を行く清瀬に声をかけた。
「清瀬さん、どうして俺に親切にしてくれるんです」
清瀬は振り返り、アスファルトの隙間から緑の雑草が芽吹いているのを見つけたひとの
ように、ひっそりとした笑みを浮かべた。
「俺のことは、ハイジと呼んでくれていい」
走は観念し、自転車を引く清瀬の隣に並んだ。どんな安アパートでも、どんなに住人が
風変わりでも、野宿よりはましだろう。
アパートは想像以上に古かった。
「……ハイジさん、ここが?」
「そう、ここが竹青荘。俺たちは『アオタケ』と呼んでいる」
清瀬は誇らしげに、自分たちのまえにある建物を見上げた。走はただ呆然とするばかり
だ。文化財でもないのにこんなに古い木造建築を見るのは、はじめてだった。
安やす普ぶ請しんの木造二階建ては、いまにも崩れ落ちそうだ。ひとが住んでいると
は、とても信じられない。だが恐ろしいことに、いくつかの窓に柔らかな明かりが灯って
いた。
竹青荘は、大学と銭湯「鶴の湯」のちょうど中間ぐらいの場所にあった。
路地を抜けると、新しく建ちはじめたマンションと、昔ながらの畑が混在するあたりに
出る。竹青荘はその一画に、青々とした生け垣に囲まれて建っていた。門はなく、生け垣
の切れ間から敷地内を見通すことができる。
砂利の敷き詰められた広い前庭があり、その左手奥には、大家が住んでいるらしき平屋
があった。こちらは瓦を葺ふきかえたばかりなのか、星明かりを弾いて屋根がうっすらと
輝いている。右手側に建つのが、問題の竹青荘だ。
「部屋は全部で九室。走が来てくれたおかげで、全室埋まったよ」
清瀬は砂利を踏みしめながら、走を竹青荘の玄関前に案内した。玄関は、薄いガラスの
はまった格子の引き戸だった。羽虫のたまった細長いフードのなかで、外灯がせわしなく
点滅している。煤すすけた光を頼りに、走はなんとか、玄関横にかけられた古い木の表札
を読みとろうとした。そこには雄々しく崩された文字で、「竹青荘」と書かれているよう
だった。
無造作に自転車を停めた清瀬が、重ねた二つの洗面器を小脇に抱え、玄関の引き戸に手
をかける。
「住人にも、おいおい紹介しよう。みんな、寛政大の学生だ」
これにはちょっとコツがいるんだ、と言いながら、清瀬は持ちあげるようにして立てつ
けの悪い引き戸を開けた。
入ってすぐはコンクリートで固めた土間になっていて、かたわらには蓋ふたのついた下
駄箱が設置されていた。郵便受けの役割も果たしているらしい。蓋には横長の投げ入れ口
が開けられ、ボールペンで紙に書き殴った部屋番号が、セロハンテープで貼りつけてあっ
た。紙はどれも、日に焼けて茶色くなっている。ざっと下駄箱に目を走らせたところ、部
屋は一階に四室、二階に五室あるようだった。
二階に通じる階段は、玄関を入った右手にあった。上ってみるまでもなく、歪ゆがんで
いるのが見て取れる。未だにこの建物が崩壊していないのは、つくづく不思議だ、と走は
思った。
清瀬は履いていた健康サンダルを土間に脱ぐと、
「さあ、上がれよ」
と走をうながした。走は言われるがまま、「一〇三」と書かれた箱にスニーカーを収め
た。
「ハイジさん、おかえりー」
と声がしたのは、そのときだった。走はびっくりしてあたりを見まわす。だれもいな
い。横で清瀬も、不審そうに眉を寄せている。
「こっちこっち」
と重ねて声をかけられ、走と清瀬は天井を振り仰いだ。玄関の天井に、なぜか拳大の穴
が空いていた。顔を押しつけるようにしているのだろう。穴からはだれかの目がのぞき、
悪戯いたずらそうな笑いを象かたどっていた。
「ジョージ」
清瀬が低い声を出した。「なんなんだ、その穴は」
「踏み抜いちゃった」
「いま行くから待ってろ」
清瀬は憤然と、しかし足音を立てずに階段を上っていく。走は迷ったが、清瀬のあとを
追うことにした。走が足をかけると、階段はうぐいす張りになっているかのように、激し
く軋んだ。
暗くて急な階段を上りきり、走は二階の様子を眺めた。予想していたよりも天井が高
い。階段の隣には便所と洗面所らしきドアが二つあり、その並びには二室あるようだっ
た。廊下を挟んで、階段と反対側には三室。どの部屋もひっそりと静まり返っていたが、
三室並んでいるうちの階段のすぐ正面、「二〇一」とプレートの張られたドアからだけ
は、明かりが漏れていた。
清瀬はためらいなく二〇一号室に歩み寄り、ノックもせずにドアを開けた。走は戸口か
らおずおずと、室内を覗いた。
二〇一号室は十畳ほどの広さがあり、中央に置かれた卓袱ちやぶ台だいを境に、二組の
布団が敷きっぱなしになっていた。二〇一号室の住人は、どうやら二人いるようだ。布団
のまわりには、それぞれの持ち物らしき本やがらくたが乱雑に散らばっている。
なによりも目を引いたのは、その部屋の住人だった。まったく同じ顔をした男が二人、
すがるような目でこちらを見ていたのだ。とてもよく似た双子だ。走はまちがい探しをす
る気分で、二〇一号室の住人の顔を見比べた。
「気をつけろって言っただろ。どっちが踏み抜いたんだ」
清瀬が腰に手を当てて、冷たく言い放つ。身を寄せあうようにしていた双子が、同時に
しゃべりはじめた。