走は、鈍い金色の鍵を手に取った。魔法の扉を開けるためにあるような、レトロな形状
をしている。それは代々の部屋の主の手によって、メッキがところどころ げ、あたたか
い丸みを帯びていた。
清瀬は先に立って一〇三号室の窓を開け、風を入れた。部屋は六畳で、押入もついてい
る。走は念のため、押入のふすまを開けてみた。危惧していたような血の染みはなく、室
内は古いがきちんと清潔さを保っていた。
「明日、貸し布団屋を教えよう。今夜は俺の毛布で我慢して。あとで持ってくる」
「すいません」
「便所と洗面所は各階にある。掃除当番のローテーションは、月ごとに台所に貼りだされ
る。走は来たばかりだから、四月からでいい。飯は朝と夜は俺が作る」
「ハイジさんが? 一人でですか」
「簡単なものだけだが。昼は各自で調達。朝夕も必要ない場合は、前日までに申し出るこ
と」
清瀬は淀みなく、竹青荘の決まりごとを述べた。「風呂は、この先の『鶴の湯』に行っ
てもいいし、大家さんの家の風呂を借りることも可能だ。その場合は、夜八時から十一時
までのあいだに入浴をすませること。事前の予約や風呂掃除などは必要ない。風呂掃除は
大家さんの趣味なんだ」
「はい」
走は頭に叩きこむために、集中して清瀬の話に耳を傾けた。
「門限などはいっさいなし。わからないことがあったら、そのつど聞いてくれ」
「飯の時間は?」
「講義によって時間帯も違ってくるから、各自あたためて食ってるよ。多いのは、朝は八
時半ごろ、夜は七時半ごろかな」
「わかりました」
走はうなずき、改めて頭を下げた。「よろしくお願いします」
清瀬はまた、微笑みを見せた。なにか魂胆があって、自分を竹青荘に連れてきたのかと
走は疑っていたが、このアパートの住人の半分に会ったいまとなっては、そんな疑惑を抱
きつづけるのが難しかった。清瀬をはじめ、いままで出くわした住人はみな少し変わって
いたが、走をすぐに受け入れてくれた。清瀬が見せる微笑も、押しつけがましいところの
ない、ごくごく控えめなものだ。
台所のほうから、壁掛け時計がポンとひとつ時を打つのが聞こえた。
「十時半か」
清瀬は思い出したように、玄関の上がり口に置いたままだった洗面器へ視線をやった。
「まだ大家さんの風呂が使える。疲れてなかったら、挨拶がてら母おも屋やに行くか?」
二人は連れ立って、再び玄関から外へ出る。いちいち靴を出すのは面倒だろうと、清瀬
は走にも健康サンダルを勧めた。竹青荘の住人は、近所を歩くときは健康サンダルを愛用
しているようだ。玄関の端には、何組かのサンダルが脱ぎ捨てられていた。
砂利を踏み、庭を横切って、母屋である平屋建ての木造住宅に向かう。庭といっても、
日陰を作るのに適した大きな木が何本か、生け垣沿いに勝手に生えているのみで、あとは
素っ気ないものだ。作庭と同じぐらいの無造作な様子で、大きめの白いワゴンが停まって
いる。これも駐車スペースが決まっているわけではなく、気が向いたところにただ停めた
だけ、という感じだった。
都内だというのに、ずいぶん贅沢な土地の使いかただ。住む場所が決まって余裕が生ま
れたのか、走ははじめて、通う大学のあるこの地域に親しみを感じることができた。
東京といったら、ただゴミゴミしてせわしないところだと思っていたのに。走は夜の空
気を胸に吸いこんだ。案外、そんなこともなかった。ここでも、ちゃんと人々は生活して
いる。走が生まれ育った町と変わらない。生け垣を植えたり庭を作ったりして快適さを求
める、ひとの暮らしがあるのだ。
走たちの足音を聞きつけたのか、なにやら興奮した生き物の息づかいが、闇のなかを伝
わってきた。目をこらすと、母屋の縁側の下から茶色い雑種犬が出てきて、こちらに向
かってさかんに尾を振っている。
「大事な住人を忘れていた」
清瀬はかがみこんで犬の頭を撫でた。「大家さんが飼っているニラだよ」
「変な名前ですね」
走も清瀬と並んでしゃがみ、真っ黒く濡れた犬の目を覗いた。
「以前アオタケに住んでいた先輩が、拾ってきたんだ」
ニラの垂れた耳を指で起こしてやりながら、清瀬は言った。「沖縄のほうでは、極楽の
ことをニラなんとかって言うらしい。……なんだったかな。とにかく、それから取った名
前だそうだ」
「へえ、極楽ですか」
たしかに悩みなどなさそうな、愛嬌のある顔をした犬だ。ぴったりの名前だと思った。
「だれにでも愛想を振りまいちゃうバカ犬だけど、かわいいんだよ」
清瀬がひとしきり、耳をいじったり丸まった尻尾を伸ばそうとしたりしても、ニラはあ
いかわらず二人に向かって親愛の情を示している。走も挨拶がわりに、ニラの頭を一撫で
してやった。ニラは鎖につながれてはおらず、綺麗な赤い革の首輪をしていた。「似合っ
てるな」と、走は犬に囁きかけた。
大家は田た崎ざき源げん一いち郎ろうという名の、矍かく鑠しやくとした老人だった。
清瀬が適当に脚色して走の境遇を語り、家賃をしばらく待ってほしいと言うと、大家は
顔色も変えずにうなずいてみせた。しかし走の名前を聞いたとたん、老人の様子にわずか
な変化があった。
「蔵原走……。もしや、仙台城じよう西せい高こうの蔵原か?」
海辺で細かい波しぶきを顔に受けたひとのように、鬱うつ陶とうしがっているのか興奮
しているのかわからない、せきこんだ調子で尋ねてくる。自分の過去を知っているらしき
人物をまえにして、走は全身を緊張させた。それと同時に、清瀬が走を竹青荘に連れてき
たことへの疑念がまたもやこみあげ、いやな気分になった。走はもう、記録のために走ら
されたり、チームメイトの嫉妬や競争心に振りまわされたりする世界とは、できるだけ無
縁でいたかったのだ。
強張った表情のまま、走はうつむいて母屋の玄関先に立っていた。そんな走の態度に思
うところがあったのか、大家はしつこく食い下がってはこなかった。
「まあ、仲良くやってくれ。アパートを壊さないようにな」
それだけを言って、テレビの音がしている茶の間へさっさと引っこむ。走は、さっそく
床に穴が開いたところを見てしまったが、と思いながら清瀬を振り返った。
「黙ってろ」
と清瀬は言った。「大家さんは建物が崩壊しないかぎり、様子を見にきたりはしないか
ら」
風呂場は母屋の一番奥にあり、脱衣所には大型の洗濯機もあった。壁には、「洗濯は夜
十時まで。下着類は下洗いしてから」と、筆で書かれた紙が画鋲がびようでとめられてい
る。旅館の床の間に飾られる掛け軸のように、隆々とした文字だ。書かれた内容との落差
に走が気を取られていると、電気のついていない浴室のドアが、突然内側から開いた。