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二、箱根の山は天下の険(2)
日期:2025-06-27 16:38  点击:226

「でももう、ほとんど治った。いまは勘と速さが戻ってきているのがわかって、走るのが

楽しいよ」

  傷痕を見たときから、走にはなんとなくわかっていた。清瀬が走と同じように、真剣に

走りを追求してきた人間であること。はじめて会った夜に、あんなに必死に自転車で追い

かけてきたのは、走の走りに興味が湧いたからであること。

  引き綱をつけられたニラは、早く歩きだそうと、しきりに清瀬を引っ張った。清瀬がそ

れを押しとどめつつ、「どうする、走ももう戻るか?」と聞く。走はベンチの背に身を預

け、しばらく迷ったすえに口を開いた。

「竹青荘を紹介してくれたのは、俺も陸上をやってたってわかったからですか?」

「きみを追いかけたのは、きみの走りっぷりがすごくよかったからだ」

  と、清瀬は言った。「でも、竹青荘にきみをつれてきたのは、とても自由に走っている

と思ったからだよ。万引き犯だとか、そういうことをぶっ飛ばすほど楽しそうに走ってい

た。俺はそれがすごく、気に入ったんだ」

「帰りましょうか」

  走はベンチから立ちあがる。清瀬の答えは、走の心を傷つけなかった。

  本格的に動きだした朝の空気が、ひとけのない公園にも押し寄せていた。表通りを走る

車のクラクション。どこかの家で、新聞を取るためにポストを開閉する音。足早に職場や

学校へ向かう人々の気配。

  それらをまとめて肺に取りこめば、鮮度を増した血液が指先までまわっていく。

  走は清瀬とともに公園から出ると、竹青荘へ向かって再び走りだした。ニラも心得たも

ので、しっかりとまえを向いて走った。ニラの爪がアスファルトを小刻みに く音が、暗

黙のうちに二人の速度の指標になった。走にしてみれば、いつもよりも格段に遅いペース

だ。だが少しも気にならない。ニラの引き綱を持って隣を走る清瀬は、たしかに自分の体

の運びかたを熟知しているようだった。毎日毎日走りこみ、たゆまぬ努力をつづけたもの

だけが体得することのできる走りだ。

「ねえ、ハイジさん」

  走りながら、走は気になっていたことを聞いた。「どうしてニラにレジ袋を運ばせてる

んですか」

「持つのが面倒だから」

  清瀬はなんでもないことのように答えた。清瀬の言葉には、いつだって迷いがない。

  それにしても、と走はニラに同情した。人間よりもずっとすぐれた嗅覚を持つ身なの

に、排泄物を鼻先にぶらさげられるのは、ニラにとってかなり苦痛なんじゃないか。

  走の心配をよそに、ニラは快調に走りつづけた。巻いた茶色い尻尾が、リズムを取るよ

うに尻のうえで揺れていた。

  四月に入り、竹青荘の住人たちの動きはにわかに慌ただしくなった。

  オリエンテーションや履修登録で、頻繁に大学に行かねばならない。春の風に乗る蜜蜂

のように、一時もじっとしていられずに動きまわる。

  ジョータとジョージは入学式の直後から張り切って、かわいい子がいるサークルの物色

に余念がない。あとがなくなってきたニコチャンは、学生たちのあいだに闇で出回ってい

る「楽勝単位取得マニュアル」を真剣に検討し、どの講義を取るかに頭を悩ませる。キン

グの部屋からは毎晩、「就職、就職」とうなされる声が竹青荘じゅうに聞こえ、去年の時

点で司法試験合格を果たしたユキは、ゼミにも入らずに夜毎クラブをまわって音の洪水に

身をひたす。真面目でマイペースなムサと神童は、そんな周囲をよそにさっさと履修登録

を終え、新しいアルバイトを探しているらしい。

  走もなんとか履修登録を済ませ、さっそく顔見知りも何人かできた。金がないから、新

入生歓迎コンパにもぐりこんでは、タダ酒を飲む日々だ。それまでなにをしていたか詮索

されることもなく、これからなにかしろと追いたてられることもない。他人にあまり干渉

しないひとたちの集う気ままな校風に、走はすぐに溶けこんだ。

  いよいよ全学生の履修登録が終了し、明日から講義がはじまるという日。走が夕方の

ジョギングを終えて竹青荘の玄関をくぐると、双子の部屋に空いた穴から、札がぶらさ

がっていた。札には、「本日、走の歓迎会。住人は七時に双子の部屋に集合」と書いてあ

る。

  俺の歓迎会。走はくすぐったい気分になった。ここへ来て二週間近くたつのに、そして

理由をつけては毎晩、だれかの部屋で飲み会や麻雀大会をやっているのに、いまさら歓迎

会もなにもないとは思うが、うれしいことに変わりはない。

「ただいま」

  と声をかけて廊下に上がる。台所では清瀬と双子が、宴会に備えて料理を作っていた。

清瀬は大きな中華鍋で、タマネギのみじん切りとニンニクの塊を炒めている。中華鍋なの

に、なんでオリーブオイルの香りがするんだろう。走は怪け訝げんに思った。真剣な表情

で火の通り具合を監視していた清瀬が、「いまだ!」と言った。ジョータが素早くホール

トマトの缶詰を開け、中身を中華鍋に投入する。パスタのソースを作っているらしかっ

た。

  ジョータは缶詰を傾けるのとは反対の手で、フライパンを操っている。大量の高菜と

ジャコが宙を舞い、今度はゴマ油の香ばしいにおいが台所に漂う。

「混ぜご飯にしようと思ってるんだ」

  走に気づき、ジョータはにこやかに言った。「高菜は好き?」

  パスタにご飯。炭水化物の多いメニューだな、と思いながら、走はうなずいた。

  ジョージは食卓の椅子に座って、ボウルいっぱいにほうれん草の白和えらしきものを

作っていた。額にうっすらと汗が浮くほど、力をこめてかき混ぜる。薄緑色のペースト状

の物体ができあがりつつあった。不安に思った走は手伝おうとしたが、「主賓はなにもし

なくていいってば」と追い払われた。双子の歓迎会は、走が竹青荘に来るまえに済んでい

たらしい。先住者の威厳をもって、ジョータとジョージは調理にあたる。

  することがないので、走は「鶴の湯」でひとっ風呂浴びてきた。こざっぱりしたところ

で、自室で七時を待つ。

  待つうちにうとうとしたらしく、慌てて身を起こしたときには、すでに七時五分前だっ

た。すぐに双子の部屋に行こうかと思ったが、時間よりまえに登場するのも、待ちかねて

いたようで気恥ずかしい。走はそっとドアを開け、様子をうかがった。台所にはだれもお

らず、一階は静まり返っている。ひとの気配と立ち歩く物音は、二階の双子の部屋に集中

していた。

  走はそれから三分待って、二階に上がっていった。

  双子の部屋のドアを開けると、「いいからこの授業ではおまえが代返しておけ!」と、

ニコチャンが恫どう喝かつしながらムサにヘッドロックをかけたところだった。

「あ、走!」

  ジョータが情けない声を上げる。「ほら、走が来ちゃったぜ」

  来ちゃいけなかったのか、と走は戸惑ったが、どうやら走が来るのに合わせて、クラッ

カーを鳴らそうとしていたらしい。ニコチャン先輩が騒ぎたてたせいでタイミングを逃し

た、とジョージは不満顔だ。神童が取りなしつつ、ムサをニコチャンから救出してやる。

  双子の部屋は住人でいっぱいだった。部屋の中央の卓袱台とその周辺には、清瀬と双子

が作った料理と、各人が持ち寄った菓子や酒がたくさん置かれている。早々とつまみ食い

をしたキングが、口をもごもごさせながら、走に向かって「おう、座れよ」と言った。

  清瀬の制止も聞かず、クラッカーは窓から母屋のほうに向けていっせいに鳴らされるこ

とになった。びっくりしたニラが縁の下から這いだしてきて、月に向かって盛んに吠え

る。



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06/28 20:31