日语学习网
二、箱根の山は天下の険(3)
日期:2025-06-27 16:39  点击:202

「さてと、乾杯するか」

  ニコチャンが缶ビールを手に取った。清瀬は室内を見まわす。

「なにかたりないような気がするな」

「王子さんがいないよ!」

  と、双子が声をそろえて言った。

「だれですか?」

  走の質問には、ユキが答えた。

「二〇四号室に住んでいる、柏かしわ崎ざき茜あかねのことだ。文学部二年」

  まだ顔を合わせていない住人がいたのか。それにしても、どうして「王子」なんだろ

う。

「呼んでこよう」

  と清瀬が立ちあがった。「走も一緒に来てくれ」

  双子の部屋を出た清瀬は、階段に一番近い二〇四号室のドアをノックした。

「入るぞ、王子」

  返答を待たずに開けられたドアの内部を見て、走は眩暈めまいを覚えてよろめいた。

  走の部屋と同じ間取りの狭い室内には、床から天井近くまでぎっしりと漫画が積んで

あった。細い通路分ぐらいしか、畳の表面が見えていない。その通路の一番奥、窓のそば

に、毛布が畳んで置かれていた。布団を敷くスペースがないので、毛布にくるまって寝て

いるらしい。部屋の電気はついていたが、住人は不在のようだった。

  とにかく、すごい量の漫画だ。二〇四号室は、走の部屋のちょうど真上にあたる。夜毎

の天井の軋みは、このせいだったのか。走は壁となって積み重なる漫画に、そっと触れ

た。

「ちょっと、いじるなよ。ちゃんと分類してあるんだから」

  かたわらの漫画の山のうえから声がした。驚いた走は、声の正体を見きわめようとあと

ずさり、漫画の山に背中をぶつけた。ざらざらと本が頭上に降ってくる。

「ああ、もう!」

  天井と漫画の山の隙間から、華やかな顔立ちの男が這いおりてきた。王子というあだ名

にふさわしい、重そうな睫まつ毛げをしばたたかせる。

「なんなの、ハイジさん。こいつ新入り?」

「二週間ほどまえからね」

  清瀬は畳に散らばった漫画を拾い集め、王子に渡した。「今夜は走の歓迎会だ。玄関に

札が下がっていたはずだが」

「気づかなかった。ここ何日か、アオタケから出てないですから」

「きみにもぜヽひヽ参加してもらいたい」

  面倒だなあと言いつつも、王子は清瀬の眼光に押される形で廊下に出た。走は急いで、

「あの」と言った。

「俺の部屋、家鳴りがひどいんですが」

「そんなの、どこだってひどいよ」

  食べ物のにおいに誘われたのか、王子は漫画を抱えたまま、ふらふらと双子の部屋のほ

うへ近づいていく。

「いや絶対に、俺の部屋の家鳴りはどこよりもひどいです」

  走は必死だった。こんなに重量のかかった部屋の下に住むのは、危険きわまりない。

「王子さん、俺の部屋と場所を交換しましょう」

「湿気の多い一階に、大事な漫画を置けるもんか」

  走の案を、王子はすげなく却下した。「走といったね。きみは、『ナイアガラの滝の直

下で暮らしている』と思うべきだ」

「どういう意味ですか?」

「スリル満点で、張りあいのある毎日」

  王子は双子の部屋のドアを開けた。「しかも、『素晴らしいものの下に住めていいな

あ』と、ひとがうらやむ。僕の漫画コレクションには、まちがいなくそれぐらい価値があ

るね」

  走は助けを求めて清瀬を見た。

「きみの言いたいことはよくわかる」

  清瀬はため息をついた。「だが、諦めてくれ」

  双子の部屋に、竹青荘の住人が今度こそ全員集まった。ビールで乾杯した直後から、室

内の空気は加速度をつけてアルコール濃度を高めていき、そこここで笑い声が上がった。

  王子は漫画を溜めこんだ責任を取り、崩壊の危険が高い板間に座らせられている。走は

清瀬と並んで、庭に面した窓を背に座った。こうして眺めると、竹青荘の住人の人間関係

がわかってくる。狭いアパートで、半共同生活を送るのだ。もとから波長が合うもの同士

でなくては成り立たないが、そのなかでも特に仲のいい相手というのがそれぞれあるよう

だった。

  双子は王子と、スナック菓子を猛然と食べながら漫画について議論を戦わせている。ム

サと神童は、キングの就職活動への不安に耳を傾けてやっている。

「スーツを買う金もないんだよ」

「アルバイトをしたらどうでしょう」

「キングさんの高校のときの制服ってブレザー?  だったらそれを着たらいいですよ」

  ニコチャンとユキは夢中になって、走にはわからないパソコンの話をしていた。相変わ

らず喧嘩腰だったが、これがこの二人には普通なのだと走ももう学んでいたから、放って

おく。ニコチャンはそのあいだにも、走の座る窓辺に近寄ってきて、庭に向かって煙を吐

いた。

  走と清瀬は特に会話をかわすこともなく、酒を飲み、料理を食べた。黙っていても、気

詰まりになるということはなかった。

  お互いの共通項は陸上だとわかっていたが、それを話題にすることはなんとなく避けて

いた。清瀬は膝の故障を抱えているようだし、走も進んで話せるほどには、高校時代の出

来事を自分のなかで整理しきれていない。陸上の話をしたら、結局お互いの傷をなめあう

だけになってしまいそうで、いやだった。

  缶ビールがなくなり、神童の田舎から送られてきたという地酒の封を開けた。少しも名

を知られていないその酒は、妙に甘ったるかったが、味を気にするものはだれもいない。

台所から持ってきたキュウリと塩と味噌をつまみに、ひたすらアルコール分を摂取する。

  清瀬がおもむろに口を開いたのは、そのときだった。

「ちょっと聞いてくれ。大事な話がある」

  好きに騒いでいた面々が、なにごとかと清瀬に注目する。自然と、酒瓶を中心に円が築

かれた。なにを言いだすのかと、走も隣に座った清瀬の顔を見た。

「これから一年弱、きみたちの協力を願いたい」

「司法試験でも受けるのか?」

  とニコチャンがのんびりと聞き、

「それなら俺がアドバイスするけど」

  とユキが言った。就職活動をするから、住人のための食事作りをやめにしたいとか、そ

んなことだろうと、だれもが予想していた。しかし、清瀬は首を振る。


分享到:

顶部
06/28 20:30