個人で参加してるのかと思ってましたよ。陸上界の仕組みを知らない王子が、ぶつぶつ
言った。清瀬はまったく動じることなく、表札を掲げたままさらに爆弾発言をした。
「そういうきみたちだって、陸上部員だ」
「なんでだよ!」
今度の騒ぎは、箱根を目指すと言われたときの比ではなかった。ユキが立ちあがり、清
瀬に詰め寄る。
「いつのまにそんなことになったんだ!」
「ここに入居したときから」
清瀬はしれっと言ってのけた。「おかしいと思わなかったのか? いまどき家賃三万円
で、まかないまでついてるなんて、裏があって当然だろう」
騒然とする面々をよそに、走は静かに清瀬をにらみすえた。
「つまり、アオタケに入居した時点で、陸上部への入部届が出されるわけですね?」
「そうだ」
「そして当然、自動的に関東学生陸上競技連盟に登録される」
「そうだ」
「そうだ。って、あんたね……」
走はため息をついた。「本人の承諾も得ずに、汚いじゃないですか。陸上部は、全部で
何人いるんです」
「短距離をやってるものは、十数人いるかな。むちゃくちゃ弱いけれど。長距離は、ここ
にいる十人だ」
「だからいつ、俺たちが陸上選手になったんだっての!」
キングが清瀬から表札を奪いとろうとする。ムサが慌ててそれを押しとどめた。
「わけがわかりません。ちょっと話しあいましょう」
「そうだな。まあ落ち着こう。座ってくれ」
清瀬が平然と指示する。おまえのせいで混乱してるんだ、とだれもが思った。だが竹青
荘において、清瀬の言葉はふだんから絶大な力を持っている。一同は憤りを無理やり鎮め
て渋々と腰を下ろし、再び車座になった。口を開くものはいない。あまりのことに、なに
を言ったらいいのかわからないのだ。
走の脇腹を、ユキが肘で小突いた。その目は、「行け」と言っていた。走は困惑し、輪
を作る住人たちを見まわした。双子が、救いを求める顔つきで走に目配せした。走が朝
晩、一人でジョギングをすることは、すでに竹青荘じゅうに知れ渡っている。知らないの
は、部屋に籠もって漫画ばかり読んでいた王子ぐらいだ。
縦社会で暮らしてきた走にしてみると、並み居る先住者を押しのけて口火を切ることに
は、ためらいがあった。だが、清瀬の突然の発案に説得力をもって対抗できるのは、陸上
の世界に詳しい走をおいてほかにいない。どうやら、走が代表して清瀬に質問するしかな
いようだ。
走は居住まいを正した。
「念のため聞きますが、監督はだれなんですか? こんな、自分が陸上部に所属している
ことも知らない幽霊部員を、どう思ってるんでしょう」
「それは心配ない。監督は大家の田崎源一郎氏だ」
「無茶だよ!」
再び、輪のあちこちで悲痛な叫び声が上がった。
「あんなヨロヨロしたおじいさんが部の監督という時点で、無理があるでしょう!」
ジョージは驚きのあまり、酒を気管につまらせたらしい。盛大にむせながら訴えた。
「失礼な。大家さんは、日本陸上界の至宝と言われたひとだぞ」
清瀬がたしなめるように言う。
「それ、いつの話です?」
ジョージの背中をさすってやりながら、ジョータがおそるおそる聞いた。
「そうだなあ、円谷つぶらや幸こう吉きちが食べ物づくしの遺書を書いて死んだとき、大
家さんはすでに寛政大の名コーチとして知られていた」
「さっぱりわかりません」
ムサが哀しそうに首をひねる。今回ばかりは神童も、雑学王のキングも、ムサの疑問に
答えるだけの余裕がなかった。円谷幸吉は、東京オリンピックでマラソン銅メダルを取っ
た偉大なランナーだが、それを説明していると話が先に進まないので、走もムサの嘆きを
無視することにした。
「ハイジさんは箱根を目指すと言ったけれど、はっきり言ってそれは無理です」
きっぱりとした走の言葉に、清瀬を除いた全員がホッとした素振りを見せる。
「やってみもしないのに、そんなことわからないだろう」
「わかります。陸上の強豪校が、ハードな練習を毎日、何年もやって、それでも箱根に出
場できるのは、ほんの一握りの大学だけなんですよ?」
「自慢じゃないけど、僕は走ったこともろくにないよ」
持ちこんだ漫画を、我関せずとばかりに読んでいた王子が、ひさしぶりに顔を上げた。
「そんな僕が箱根駅伝に出場するまでには、ゾウリムシが人間に進化するよりも長い時間
がかかると思う」
「いくら王子でも、ゾウリムシよりは足は速いはずだぞ」
と、キングが下手な慰めを言った。
「ゾウリムシはゾウリムシだ。進化しても人間にはならない」
と、ユキは冷淡に切って捨てる。
外野の声には耳を貸さず、清瀬は真っ正面から走を見据えた。
「きみが、やってみもしないで尻尾を巻くとは意外だな。練習は大切だが、ただ闇雲に
ハードなトレーニングをすればいいってものでもないだろう」
走も真っ向から受けて立つ。
「ハイジさんも走っていたならわかるでしょう。このひとたちは素人だ。そんな夢みたい
な話に巻きこんで、わざわざ苦しい思いをさせてなんになるんです」
「挑戦してみなければ、たしかに夢みたいな話のままだ」
清瀬はめずらしく感情を露わにし、苛立たしげに言い募る。「だが、彼らには充分素質
がある。ニコチャン先輩は陸上経験者だ。高校時代、双子とキングはサッカー部、ユキは
剣道部だった。神童は毎日往復十キロの山道を歩いて学校まで通っていたやつだし、ムサ
の筋力に秘められた潜在能力は計り知れない」
「黒人は足が速いというのは偏見です」
ムサは力なく言った。「ヒップホップが嫌いでダンスの苦手な黒人もいるように、私も
格別に足が速いというわけではありません」
「俺が陸上やってたのなんて、もう七年はまえの話だぞ」
ニコチャンも、新たな煙草に火をつけながら苦笑する。
「数に入れられていないみたいだけど、たしかに僕は運痴だよ」
王子は手持ちぶさたそうに漫画をめくりながら、いじけて言った。清瀬はあいかわらず
走だけを視界に入れて、熱く語る。
「そして、走がアオタケに来た。十人そろったんだ。箱根は蜃しん気き楼ろうの山なんか
じゃない。これは夢物語じゃない。俺たちが襷たすきをつないで上っていける、現実の話
だ!」