パチパチと気のない拍手がまばらに起こり、「茶化すな」と清瀬に一喝されて止んだ。
走がなおも反論しようとするのをさえぎり、清瀬は駄目押しとばかりに「箱根駅伝参加資
格」をそらんじた。
「『参加校所属の関東学生陸上競技連盟登録競技者で、本大会出場申込回数が四回を越え
ない者。予選会のみ出場の場合も回数に含まれる』。アオタケの住人は寛政大学陸上部の
部員だし、部員は自動的に連盟に登録手続きされている。予選会も含めて、箱根駅伝に一
回でも出場したことのあるものはここにはいない。ほら、出場のための資格のすべてを満
たしているだろう」
「問題はその予選会ですよ」
走はようやく口を挟むことができた。「いきなりポッと箱根駅伝に出られるわけないん
だから」
「そうなのかい? 知らなかった」
と、神童がつぶやいた。走は、「ほとんどのひとが、正月にやる本選しか見ませんから
ね」とうなずく。
「箱根駅伝には二十校が参加できますが、そのなかでシード権を得られるのは、上位十校
までです。残りの出場枠を獲得するために、毎年だいたい三十校が、十月に開かれる予選
会に挑戦してるんですよ」
「関東にある大学のなかの三十校なら、そんなに多いってわけでもないじゃん」
ジョージの言葉を、「甘い!」と走は断じた。
「箱根は十区間を十人で走るけど、どの区間も二十キロ以上ある。当然、予選会もそれぞ
れの大学の選手が、いっせいに二十キロ走った合計タイムで決めるんだ。でも……、まず
この二十キロが大きな問題だ」
走の視線にうながされ、清瀬がしぶしぶと言葉を添えた。
「二十キロをそれなりのスピードで走れる人間を、十人も確保するのは大変なことだ。し
かも最近はスピード化がどんどん進んでいる。予選会に出場するにも条件があって、五千
メートルを十七分以内、もしくは一万メートルを三十五分以内の公認記録を持っていなけ
ればならない」
具体的なタイムを聞いて気け圧おされたのか、室内にしばし沈黙が下りた。今度は走が
つづける。
「箱根駅伝に出場するようなトップレベルの大学は、だいたい選手が平均して、五千メー
トルを十四分台前半で走る。そしてこれは、全国から精鋭を集めまくった結果です。箱根
は綺麗事だけで手が届くような大会じゃない。スポーツ推薦もない大学の弱小陸上部が、
出場できる隙はないですよ」
王子がおずおずと手をあげて発言した。
「ええと、その記録のすごさが、僕にはよくわからないんだけど」
「高校の体育で持久走をやりませんでしたか?」
ジョータがかすれがちな声で聞いても、王子は「全然」と首を振るばかりだった。
「僕の高校は進学校だったから、持久走なんて三キロだったよ」
「五千メートル十七分以内と言ったら、一キロあたり三分半より速いペースということに
なる」
ユキが冷静に暗算してみせた。
「三分半! 僕は三キロ走るのに十五分ぐらいかかりましたよ、たしか」
「それは……、絶望的に遅いな」
ニコチャンは絶え間なく煙草を吹かしながらぼやく。
「五千メートル十七分は、あくまで予選会出場のための条件だ。十四分台で走れる力が全
員にないと、箱根に行くのは難しい」
と、清瀬はますます冷静に指摘した。
「明らかに不可能じゃない、俺たちじゃ」
ジョージはお役ご免とばかりにほがらかだった。だが清瀬は諦めない。
「長距離に必要なのは、持久力と集中力だ。ただダラダラ練習すればいいってもんじゃな
い。箱根のみに目標を絞りこんで調整していけば、俺たちなら不可能を可能にできる」
「なにを根拠にすれば、そんな自信が持てるんです」
走はあきれた。
「根拠なら、さっきも言っただろう。アオタケの住人には、底力がある」
清瀬は堂々としたものだ。清瀬にこんな情熱があるとは、竹青荘で数年をともにしたも
のですら、これまで気がつかなかっただろう。
「具体的に数字を示すと、走は五千メートルを十三分台で走れる。これは箱根に出る選手
のなかでも、少数の人間しか持っていないようなすごい記録だ。ちなみに俺は、故障する
直前の記録会では十四分十秒台だった。最近は復調してきたから、箱根を走り終わったら
脚が折れてもいい覚悟で、もっと記録を伸ばす」
「いや、折れるほどやってくれなくてけっこうだ」
熱血を好まないらしいユキが、ぼそりと言った。「ついでに、俺を巻きこむのもやめて
ほしい」
ユキの言いぶんを、清瀬は無視した。
「さらに、ムサだってたぶん、十四分弱で走れるはずだ。箱根に出場する外国人選手は、
全員十三分台だからな」
「それはそのひとたちが、足が速いのを見込まれて留学しているからでしょう」
ムサは目で神童に助けを求めながら、必死に弁明した。「私は無理ですよ。理工学部の
国費留学生なんだから。もっと言えば、私は国では送迎の車で学校に通っていました」
「そんなお金持ちなのに、なんでアオタケなんかに来ちゃったんですか?」
ジョージがもっともな疑問を呈する。
「社会勉強のためです。こんなことになるとは……」
と、ムサはしおれた朝顔のようになってしまった。清瀬はかまわずにまとめに入る。
「とにかく、あとのものも麻雀やら夜遊びやらにかける情熱をちょっと走ることに向けれ
ば、きっといい結果が出るはずだ。なんといっても、きみたちは体力だけは有り余ってる
んだから」
清瀬の熱意に煽あおられ、だんだん乗り気になってきたものが何人かいる。それを走は
空気で察した。そんなに簡単な話なものか。走は乱暴にコップに酒をつぎたした。
素人ばかりの集団が、箱根駅伝を目指す。しかも、十月の予選会まで半年しかない。真
剣に陸上をやっている人間が聞いたら、「寝言か?」と笑うぐらいの無謀さだ。いったい
清瀬は、走ることをなんだと思っているのだろう。
俺を竹青荘に誘ってくれたのも、こういう下心があってのことだったのか。高校時代
に、俺のスピードだけをもてはやしたやつらと、ハイジさんも結局は同じじゃないか。
しかし、憤然と部屋から出ていくことはできなかった。こんなくだらない話につきあっ
ていないで、さっさと自室に帰ればいい。そう考えても、なぜか体が動かなかった。心の
どこかで、おもしろそうじゃないか、と囁く声がする。このまま、陸上界から離れた場所
で、いつまでも一人で走るつもりなのか。それぐらいなら、竹青荘の住人たちと一緒に、
箱根駅伝に殴りこみをかけたほうがましだ。試してみるのも悪くない。