囁きは走を焚たきつける火種になる。
清瀬は言ってくれた。走の走りは自由で、楽しそうだった。だから声をかけたのだ、
と。そんなことを言うひとは、これまで走のまわりにはいなかった。
走ることに楽しみなど必要ない。速さの向上のみを目指し、遊びや恋や友だちとのつき
あいなど、あとまわしにするべきだ。監督から、コーチから、上級生から、そんな言葉を
飽きるほど聞かされた。走は、機械のように走ることだけを求められてきたのだ。ストッ
プウォッチに刻まれる数値だけが走の価値。そういう日々には、うんざりだったはずだ。
ほかの住人たちも、それぞれ黙ってなにか考えているようだ。走はもやもやする気持ち
をもてあましながら、身じろぎするものもいない室内を眺めていた。
やがて、神童が顔を上げた。
「僕はやってみてもいいな」
驚きを含んだ視線が、神童に集中する。物静かで堅実な神童が、まさか一番最初に決断
するとは、だれも思っていなかった。
「田舎では毎日、何キロも山道を歩いていたから、持久力には自信がある。それに、箱根
駅伝に出られたら、テレビで放映されるでしょう? 親も喜ぶと思うんです」
「神童さんがやるなら、私も挑戦します」
ムサが言った。「でも断っておきますが、本当に足は速くありませんよ。それでもいい
ですか?」
「それはこれからの練習次第でなんとかなるよ」
清瀬が、ここが肝心とばかりに優しく言った。
おいおい、とニコチャンが顔をしかめ、ユキは窓の外を見やって、知らん顔を決めこ
む。王子は少しずつドアのほうへ移動していった。
それ以外のノリのいい二階の住人たちは、神童とムサの参加表明に色めきたった。
「ねえねえ、ハイジさん。女の子にモテるんだね?」
「絶対だね?」
「これで就職も安泰ってホントだな?」
双子とキングが弾んだ調子で、矢継ぎ早に確認を取る。清瀬は「もちろん」と請けあっ
てみせた。
だまされてるぞ! と走は叫びたかった。しかし、なにを言っても無駄だということも
わかる。双子もキングも、直面した厳しい現実から、ちょっと逃避したいだけなのだ。だ
から、目の前にぶらさげられた「箱根駅伝」という餌に飛びつく。夢の結晶でできた甘い
砂糖菓子を、鼻先にちらつかされた馬のように。
キングが調子よく、
「よっしゃ。ハイジの野望に協力してやろうじゃないか!」
と気勢を上げた。清瀬は「さて」と、まだ参加表明をしていないニコチャン、ユキ、王
子、走を順繰りに視線で薙ないだ。
「多数決で言えば、もう箱根駅伝を目指すことは決定事項になった。だが、それではきみ
たちも納得がいかないだろう」
なにを言われるのかと、走は呼吸すらも控えめにして、清瀬の攻撃に備えた。清瀬は静
かに恫喝をつづける。
「そこで、強権を発動する。きみたちに拒否権はない」
「横暴だぞ!」
「法治国家でそんなことが許されていいのか」
ニコチャンとユキの必死の抗議を、清瀬は鼻先で笑い飛ばした。
「ニコチャン先輩。この試験は絶対に落とせない、と泣いて頼んだあなたを、母親のごと
き優しさと厳しさをもって、時間にまにあうように叩き起こしたのはだれです。毎年、ヤ
ニの付着した壁紙を貼り替える手伝いをしてきたのはだれです。あなたが廊下の床板を踏
み抜いたとき、大家に告げ口もせず修繕してあげたのはだれです」
ニコチャンは死刑執行の直前に改心した囚人みたいに、突然おとなしくなった。清瀬は
矛先をユキに変える。
「ユキも忘れてはいないよな、俺が作ったおせち料理の味を。去年一年間、司法試験のせ
いでバイトができず、金がないと言っては昼飯を俺にたかったことも、まさか忘れたなん
てことは……」
ユキは壊れた人形のように、こくこくとうなずくばかりだった。清瀬はさらに返す刀
で、ドアを開けて部屋から退散しようとしていた王子の背中に斬りかかった。
「王子。きみの蔵書のせいで、竹青荘は崩壊寸前だ。漫画を捨てるか、ともに箱根駅伝を
目指すか、どっちがいい?」
王子はへたりこんだが、果敢にも応戦の構えを見せた。
「どっちもいやです! どっちも僕に死ねと言ってるようなもんだ」
王子の悲痛に満ちた嘆きが部屋に響く。清瀬は「ふうん」と腕を組み、走に向き直っ
た。走は軽く両手をあげてみせた。
「わかってますよ。竹青荘を紹介したのはだれだと思ってる。いやなら出ていってもい
い、って言うつもりでしょう?」
「無一文の走に、そんなことは言わないよ」
清瀬は腕組みを解いた。「いいだろう。走と王子には、何日か猶予を与える。気持ちが
変わったら、教えてくれ」
王子は嘆くのをやめ、部屋の真ん中にいる清瀬に少し近づいた。
「変わらなかったら?」
「今度は非常事態宣言でも出すか?」
と、ユキが皮肉っぽく口を出す。清瀬は穏やかに、「いいや」と微笑んだ。
「根気強く、投降を呼びかけつづける」
走と王子は、そろって肩を落とした。
数日後、授業を終えた走は、大学の正門に向かって構内を走っていた。新学期がはじ
まったばかりなので、学生の姿が多い。たむろったり、並んでしゃべりながらゆっくりと
歩いたりする人々の合間を、蛇行してすり抜ける。
ふいに、「走、走」とだれかに名を呼ばれ、走は足を止めた。あたりを見まわすと、正
門へつづくヒマラヤ杉の並木道の隅に、王子がいた。教室から持ちだしたらしい長机を置
き、小さな椅子に座って走を手招いている。
「サークルの勧誘ですか」
走が近づくと、王子はうれしそうに大学ノートを差しだした。
「ここに、名前と連絡先を書いていって」
「連絡先って……、同じアオタケなのに?」
走はノートを覗きこんだ。勧誘はうまくいっていないらしい。ノートにはお情けのよう
に、ジョータとジョージの名のみが、竹青荘の住所とともに記されていた。
「……なんのサークルなんですか?」
おそるおそる聞く。返答は予想どおり、「漫画研究会!」だった。
「僕は今年、『同じ漫画家のいろんな作品のコマを継ぎあわせて、まったく別の作品を作
る』という試みをしてみようと思っていてね」