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二、箱根の山は天下の険(8)
日期:2025-06-27 16:41  点击:238

  王子は活動予定を楽しそうに語る。走は、王子の隣の椅子に座った。

「王子さん、どうするか決めましたか」

「あヽのヽこヽとヽかい?」

  と、王子は含みのある言いかたをしたが、走はあっさりうなずいた。

「はい、箱根駅伝を目指すか目指さないか、です」

  諜報員ごっこができず、王子は不満そうだ。

「目指すよ。目指すしかないでしょう」

  と、大学ノートを閉じる。「あの量の漫画を抱えて、いまさら引っ越しなんて無理だも

ん。そんな金もないし」

「『参加しないなら漫画を捨てろ』っていうのは、ハイジさんが脅しで言ってるだけで

しょう?」

「そう思う?」

  いや、どうかな。走は内心、自信がなかった。王子の大切な蔵書を、清瀬は本当にゴミ

に出してしまいそうな気もする。

  清瀬の「投降への呼びかけ」は、走に対しても無言のうちにつづいていた。このところ

毎日、夕食に酢の物が出るのだ。しかも走の小鉢にだけ、たくさん入っている。走は昨夜

もいやいやながら、ワカメとキュウリの酸っぱい和え物を飲み下した。清瀬の計画への参

加を表明しないかぎり、酢の物攻撃はつづくのだろう。

「無理やり走らされるのは、納得がいかないです」

  走がそう言うと、王子は「まあね」と肩をすくめた。

「でも、僕たちはアオタケで共同生活してるわけだしさ。ある程度の譲歩はしょうがない

よ」

  あヽるヽ程ヽ度ヽのヽ譲ヽ歩ヽで済む問題じゃない、と走は思った。運動に縁遠い王子

は、わかっていないのだ。箱根駅伝を目指すとなったら、どれだけつらい練習をしなけれ

ばならないか、が。清瀬は険しい道のりへ、竹青荘の住人たちを誘いざなおうとしてい

る。目的地に本当にたどりつけるという保証もない、崖っぷちの狭く危険な道へ。

  物思いに沈む走に気づかず、王子は言葉をつづける。

「ハイジさんは、一年のころは陸上の大会に出ていたらしいよ。かなり真剣に、練習に取

り組んでいたって」

「どうしてやめたんでしょう」

  走は、清瀬の膝の傷のことは知らないふりをした。

「高校によっては、選手にかなり無理をさせるところもあるんだってね。そのツケで故障

するひとも多いって、ニコチャン先輩が言ってた」

  スポーツをするものは、ニコチャンのように煙草を吸うことはないはずだ。

「ニコチャン先輩は、本当に陸上をやっていたんですか?」

「うん、高校まで陸上部だったって、聞いたことがある」

  王子はノートを手に取った。白紙ばかりのページをぱらぱらとめくり、小さな風を起こ

す。

「僕はねえ、走。アオタケでの暮らしが嫌いじゃないよ。走りたいのに走れない状態に

なったひとの気持ちも、なんとなくわかるような気がする。もし僕が漫画を読めなくなっ

たら、って想像してみるとね。だから、ハイジさんに協力してもいいかなと思いはじめ

た」

  その夜、竹青荘の住人は再び双子の部屋に集結した。走と王子が箱根駅伝への参加を表

明すると、双子は歓声を上げた。

「やった、これで十人そろったね」とジョージ。

「明日から練習開始だ」とジョータ。

  ムサと神童がいそいそと、台所から清瀬が作った料理を運んできた。大皿に鶏の唐揚げ

が山盛りになっている。

「そうとなったら、スタミナをつけなければなりません」

「よく決心したね、二人とも」

  メニューに酢の物はないようだ。走はちらっと清瀬を見た。清瀬はなにくわぬ顔をして

いるが、走と王子が今夜あたり結論を出すと、ちゃんと予期していたのだろう。動きをす

べて見透かされていることが、走は少し気にくわなかった。

「はいはい、これを持って」

  ジョージが室内をまわって、住人たちに缶ビールを配る。「乾杯しようよ」

  ニコチャンとユキは、最後の砦が陥落したことに落胆の色を隠せない。気のない様子で

ジョージからビールを受け取り、走を小声でなじる。

「なんで参加を拒否しねえんだ」

「もうちょっと気概があると思っていたんだが、案外、意気地がないんだな」

  一同は手にした缶を掲げ、乾杯した。半ばは新しい目標に胸ふくらませ、半ばはヤケに

なって、

「箱根の山は天下の険!」

  と叫びながら。

  双子の部屋は、すぐに無法地帯になった。王子は板間に座り、「参加表明しただけで、

もう義務は果たした」とばかりに、一人で黙々と漫画を読んでいる。「やりおさめだ」と

持ちだした雀卓を、ニコチャンとユキとキングとジョータが囲み、その四辺をジョージが

まわる。

「ユキ、おまえには情けってもんがねえのか」

「ニコチャン先輩が弱すぎるんですよ」

「おいジョータ、鳴いて上がるのはダメだって言っただろ。ルールわかってんのか?」

「うーん、あんまりよくわかってない」

「ジョージ、盗み見た牌パイをジョータに教えるの禁止!」

  神童とムサは、麻雀の順番を待ちがてら、一緒にテレビを眺めている。

「『月曜深夜に放送!  お楽しみに!』と言っておきながら、日付的には火曜日の午前一

時に放映する。神童さん、これは変ではないですか?」

「深夜零時をまわったとしても、眠りに就くまで『月曜日』はつづいている、という解釈

なんだろうけど、たしかに混乱をきたす表現だね」

  ビールはすぐに底をつき、芋焼酎に切り替わった。室内には、新たにはじめると決めた

ことへの、意欲と希望が満ちている。口に出しはしないが、だれもが浮き立ち、しかし照

れくさいから、そんな自分を必死に抑え、ふだんどおりの振る舞いを心がけていることが

感じられる。

  走は雀卓には近寄らず、窓辺に座っていた。

  いまだけだ、と走は思った。いまは清瀬の言葉に乗せられている面々も、すぐに練習に

飽き、「もうやめた」と言いだすはずだ。走るのは、走りつづけるのは、簡単なことでは

ない。箱根駅伝は、勢いだけで出場できるような大会ではない。

  住人たちの造反や脱落によって、ハイジさんの計画はどうせ失敗に終わる。走はそう考

えた。それまで適当につきあっていればいい。俺は俺で、いままでどおりトレーニングに

励むだけだ。

  清瀬は走の隣で、落花生の殻を割っている。中身の豆をすべて皿に出した清瀬は、満足

したらしい。一息ついて焼酎の入ったコップを手に取り、「食べていいぞ」と、皿を走の

ほうへすべらせる。走は清瀬に、静かに尋ねた。

「本気なんですか?」

「ああ。遠慮するな」

「いえ、落花生のことじゃなくて。ハイジさんならわかるでしょう。こんなのは馬鹿げた

賭けだ」

  清瀬はしばらく黙っていたが、やがて淡々と、そこに質問事項が書いてあるかのよう

に、コップを明かりにかざして反問した。

「走、走るの好きか?」

  はじめて会った夜にも聞かれたことだ。走は言葉に詰まった。

「俺は知りたいんだ。走るってどういうことなのか」

  清瀬はじっとコップを見つめながら言った。走の質問に対する答えには、まるでなって

いない。

  だが走は、そのときの清瀬の真摯な眼差しを、ずっとあとまで覚えていた。


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06/29 01:10