三、練習始動
「起きてこないな」
「こないですね」
四月初旬の午前五時半は、どちらかというと夜の領域に近い。早起きの鳥が、音程をや
やはずして囀さえずりだす。新聞配達のバイクが、エンジンの音も軽やかに道を遠ざか
る。
竹青荘の庭先には、走かけると清瀬だけが立っていた。
「走、ゆうべの情熱は幻だったのか? 絶対に諦めない、風になるまでこの身を捧げる、
捧げつくして箱根の山を目指す! そう言ってくれたのに」
「俺は言ってないですよ。キングさんが勝手に盛りあがってただけで」
キングと一緒になって、ジョータとジョージも拳をつきあげていた気がするが、たぶん
三人とも覚えていないだろう。かなり酒が入っていたもんな、と走は内心で思ったが、清
瀬を刺激しないよう黙っていた。
酒の勢い、というものを斟しん酌しやくしない清瀬は、しびれを切らしたらしい。「起
こしてくる」と玄関に消えた。
東の空が薄桃色に明けていくのを、走はストレッチをしながら眺めた。竹青荘のなかか
らは、おヽたヽまヽかなにかで鍋の底を叩く音が聞こえてくる。騒音にたまりかねたよう
に、ニラが縁の下から出てきてのびをした。走はニラと、竹青荘の庭先で追いかけっこを
して遊んだ。
走の体が完全にあたたまったころ、寝起きでむくんだ顔をした住人たちが、清瀬に連行
されて玄関から出てきた。
「さて、まずは予選会の出場条件をクリアすべく、スピードとスタミナをつけていこう」
清瀬は力強く言ったが、反応ははかばかしくなかった。浜辺に打ちあげられた海藻みた
いに、覇気なくふらついているものばかりだ。酒臭い息を撒き散らしながら揺れるジョー
タを、走はそっと支えてやった。
清瀬は気にせず、言葉をつづける。
「今朝はとりあえず、多摩川の河原まで走ってみよう。各人のレベルを確認して、俺が練
習計画を立てるから」
「ご飯は? 俺、おなかがすいちゃったよ」
ジョージが遠慮がちに訴えた。
「起きてすぐに食えるのか。若いな」
ニコチャンが盛大にあくびし、ぼさぼさの髪の毛を く。その隣で、ユキは立ったまま
眠っている。
渦巻く眠気と食い気と不満を、清瀬はものともしなかった。
「飯は走ってからだ。さ、行くぞ」
「河原までって、ここから五キロはあると思うんだけど」
王子が青ざめて言った。「往復十キロ走るわけ? こんな朝っぱらから?」
「自分のペースで走っていい。楽なものだよ」
ぐずぐずしているものを、清瀬は竹青荘の敷地内から強引に追い立てる。羊の群を、つ
かず離れず監視する牧羊犬のようだ。ムサと神童は、率先して清瀬の指示に従った。キン
グはその二人に両腕を取られ、しかたなく走りだす。走は、「行こう」と双子に声をかけ
た。
「食った直後だと、腹が痛くなる。少し腹が減ってるぐらいが、一番楽に走れるから」
ジョージの背を軽く叩き、励ましながらまえに進ませる。
バス通りに出るころには、王子はすでに息も絶え絶えだった。
「二時間後ぐらいには、河原で合流できるかもね」
と、歩くのとたいして変わらない速度で進みながら言う。
「走、先に行ってくれ」
清瀬は王子を急せかすことはせず、そばで静観の構えだ。「しんがりには俺がつく。き
みは、みんなの到着タイムをとっておいて」
「シンガリってなんですか?」
とムサが神童に尋ねた。
「最後尾ってことだよ」
答えた神童は、いつもと変わらぬ風情で軽快に脚を運んでいる。
ほぼ同時に竹青荘をスタートした一団は、実力差に応じて縦に長くのびはじめている。
走はその列を抜けだし、自分のペースで走りはじめた。九人分の呼吸音も話し声も足音
も、あっというまに後方へ流れ去る。
だれかと一緒に走るのは、ずいぶんひさしぶりだ。だけど結局、一人になってしまう。
速度とリズムはだれとも共有できない、自分だけのものだからだ。
走るうちに、空はどんどん明るくなっていった。河原までの道のりは、ほとんどが住宅
街だ。仙川と野川という多摩川の支流を二つ渡り、大きな原っぱを突っ切って、小高い丘
のうえにある高級住宅地を抜ける。アップダウンに富んだコースだった。
家々の屋根の向こうに、多摩川の堤防が見えてきた。空気が澄んでいると、遠くに丹沢
の山並みと富士山が視認できるのだが、その朝は霞かすみがかっていた。
堤防を駆けあがった走は、水面を見下ろす。流れに沿って靄もやがたなびいていた。河
原には、体操をする老人や犬の散歩をするひとが、まばらにいるばかりだ。鉄橋を小田急
線が渡っていく。車内は早くも、会社や学校へ向かう人々で混みあいはじめているよう
だった。
土手の緑が、露つゆを宿して朝日に輝く。急に走りやめるのはよくないので、走は堤防
のうえをゆっくりと往復した。走は河原まで、一キロあたり三分半で走ってきた。走に
とっては、五キロだけを走るにしては格段に遅いペースだ。だが竹青荘の住人たちは、ま
だだれも来ない。クールダウンしながら、走は道と腕時計とを見比べた。
双子、神童、ムサ、ユキ、キングが、ようやく河原に到着したのは、竹青荘を出発して
から二十五分経ったときだった。キングは呼吸が荒く、つらそうだったが、ほかの五人は
余裕の表情だ。
「まだ走れそうだね」
と走が声をかけると、ジョータは走の腕時計の機能に興味を示しながら、
「よくわかんない」
と言った。「五キロとか、意識して走ったことなかったからさあ。自分がどれぐらいの
速さで、どの程度の距離を走れるのかつかめなくて、なんとなくみんなでのんびり来
ちゃったよ」
「腹へった」
と、ジョージは朝露の美しさにはおかまいなく、手近に生えている草をちぎる。ユキは
中断された睡眠のつづきをむさぼろうと、湿った土手に寝そべって目を閉じる。神童とム
サはけろりとした表情で、キングの背中をさすってやっていた。
もしかしたらこのひとたち、走ることに向いているのかもしれない、と走は思った。い
まはまだ、経験もなくコツをつかめずにいるが、少なくとも走るのが嫌いではなさそう
だ。