ニコチャンは自室で悶もだえていた。アルバイトで請け負っているソフト制作が、遅々
として進まないのだ。練習で体は疲労の極にあったが、納期が迫っている。学費と生活費
を自分でまかなうニコチャンは、疲れたからといってバイトを疎おろそかにするわけには
いかなかった。
パソコンに向かって苦吟していたら、ドアがノックされた。このクソ忙しいときに、ま
たキングがパソコンを借りにきたのか? ニコチャンはちょっと苛立ったが、気分転換も
必要だと思い直し、「入れや」と返事した。
ドアを開けて顔を覗かせたのは、双子と王子だった。ジョージは戸口から入ってきたと
たんに、「すごーい!」と歓声を上げた。
「先輩の部屋が、白く煙ってないなんて」
「ホントに禁煙中なんだね」
と、ジョータも澄んだ空気を吸いこむ。
「おかげで、作業がちっともはかどらねえよ」
うめいたニコチャンは、指ほどの長さの針金人形をまた一体完成させた。煙草を吸いた
くなるたびに、手遊びしては気を紛らわせているのだ。畳のうえには、小さな針金人形が
いっぱい散らばっていた。
「なんか呪いがこもってそうでこわい」
王子は人形を脇によけ、座りこんだ。「ちょっとパソコン貸してくれませんか」
「すぐ済むなら、かまわねえけど。どうした?」
「王子さんは、ネットオークションでルームランナーを買いたいんだってさ」
と、ジョータが答えた。王子はすでに、目当てのサイトを開くのに夢中だ。
「なんでまた」
ニコチャンは無意識のうちに煙草を探している自分に気づき、再び針金をいじりだし
た。
「漫画を読みながら部屋で走れて、いいかなと……って、ニコチャン先輩、なんですかこ
れ!」
王子が叫んだ。マウスの横に置いてあった物体に、気がついたのだ。
「なにって、煙草だよ」
煙草の箱が、針金でぐるぐる巻きにされていた。王子は熱くなった目頭をぬぐった。
「力りき石いしだ、力石ですよニコチャン先輩は!」
しかし残念ながら、『あしたのジョー』を読んだことのあるものがいなかったので、王
子の発言にはだれも反応しなかった。
「本気なんですね、ニコチャン先輩」
王子の潤うるんだ瞳に見つめられ、ニコチャンはたじろいだ。
「おまえらだって本気なんだろ? ルームランナーを買おうってぐらいだし」
「しょうがないよ、ハイジさんが本気なんだもん」
針金人形を一個ずつ見分しながら、ジョージがため息をついた。ジョータもうなずく。
「俺たちはアオタケでの暮らしが気に入ってるし、ハイジさんのことも好きだし。ハイジ
さんが箱根を目指すって言うなら、できるかぎりのことをするしかないよ」
けなげな後輩を持ってよかったな、ハイジ。ニコチャンは心のなかでそう語りかけた。
「だけどどうして、箱根駅伝なんだろう」
王子がマウスを操作する手を止め、首をかしげる。「僕なんかをわざわざ巻きこまなく
ても、走るだけならいくらでも一人でできるはずでしょう」
「一人じゃ襷はつなげねえからなあ」
煙草を吸いたい、とニコチャンは切実に思った。
「走とハイジさんが速いのはわかるよ」
とジョータが言う。「でも、俺たちより速いメンバーを、ほかから集めないのはなんで
だろう」
「アオタケに十人いるから、それでちょうどいいと思ったんじゃねえか」
ニコチャンの答えを聞いて、王子はマウスを操作しながらむくれた。
「手近で済まそうとしないでほしい」
「まあ、ハイジさんの本心はわかんないけど」
とジョージは明るくのんびり言った。「俺は、走るのはけっこう楽しいなあ」
ジョータとジョージは、互いの腰や脚をマッサージしはじめる。
「俺もだ」
ニコチャンも、パソコンに向かう王子の肩を揉んでやりつつ笑った。走が竹青荘に来た
ときから、なんとなくわかっていた。清瀬の待ち望んでいたものが訪れたのだと、ニコ
チャンは陸上経験者だからこそわかったのだ。
走るために生まれてきたような走と、走りたくても走れない苦しみを知る清瀬。走りへ
の底なしの情熱を抱える二人は、きっとお互いに影響しあい、大多数の人間には垣間見る
ことすらかなわぬある高みへと、上っていくことができるだろう。
竹青荘の残りの住人たちで、それを手助けしなければならない。俺たちが、半年後の予
選会までにどれだけ進化するか。箱根駅伝に出場できるかどうかで、走とハイジの今後も
大きく変わってくるんだ。煙草にのびそうな手を、ニコチャンはぐっと握りしめた。
部屋のドアが再びノックされ、今度は神童が顔を出した。
「王子、やっと見つけた」
「なあに? クイズ大会なら、いまは参加できないってキングさんに言っておいてくださ
い」
「キングさんとムサは、疲れて寝ちゃったよ」
神童はいつもどおり静かな動作で、ニコチャンの部屋の隅に正座した。「きみ、ルーム
ランナーが欲しいって言ってたでしょう。さっき実家に電話したら、納屋にあるって。ま
だ動くだろうから、必要なら送ってもらうけど、どうする?」
「いるいる!」
王子は、オークションのページをすぐに閉じた。
「なんでルームランナーなんて持ってたの」
ジョージが聞くと、
「田舎の家では、マッサージチェアとルームランナーとぶらさがり健康器が、たいてい埃
ほこりをかぶっているものなんだよ」
と神童は答えた。ニコチャンは、「嘘つけ。俺の実家にはそんなもんはなかったぞ」と
思ったが、双子は素直に、「すごいねえ」「家が広いんだな」と感心している。王子は、
「着払いですぐにお願いします。じゃ、僕、明日も早いしもう寝るね」と、さっさと部屋
を出ていった。あいかわらず、協調性にやや欠ける。
王子につきあってニコチャンの部屋に来たのに、置いてきぼりにされた双子は、それで
も気を悪くするふうでもない。入念に揉みあっていた手を止め、
「俺たちも帰ろうぜ」
「おやすみなさーい」
と、ドアを開けた。そのとき、ユキが向かいの部屋から猛然と出てきて、
「さっきからうるさいよ、おまえら。眠れないだろ」